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出会いの大切さ

「出会いの大切さ」

2013年6月30日

ヴィクトール・フランクルの著作の中に、終身刑の判決を受けた囚人の話があります。彼は両手を鎖でつながれて、刑務所のあるマドリードに向けて船に乗せられていきます。ところが、この船が途中で火事をおこします。沈没しかかった船から乗客を救助するために、囚人は鎖を解かれました。彼は一心不乱に救助活動に取りかかり、たくさんの人命を助け出します。この行動が認められ、彼は大幅減刑の処置を受けて、もう一度自由の人生を与えられたのです。フランクルは言います。「鎖につながれて港を出た時、彼に何の希望があっただろうか?しかし、人生には出会いがある。人生には何かが待ち受けている。今のままがずっと続くと決めつけてはならない。何かが私の未来に訪れるのだ。それが訪れた時に、正しく応答する態度によって人生は変わるのだ…」。私たちにとって最大の出会いは、主イエスとの出会いです。私たちを待ち受けておられる主イエスとの出会いを大切にし、正しく応答していく者でありたいと願わされます。

「忘れても魂の栄養になる」

2013年6月23日

ある新聞に投書がありました。その投書は毎日曜日教会に行くなんて意味がないと主張していました。「私は今まで30年間も教会に通ってきた。その間3000もの説教を聞いた。けれどその中の一つだって記憶に残っているものは無い。このことで私は自分の時間を無駄にした。牧師だって説教をすることで自分の時間を無駄にしていると思う」。この投書は数週間に亘る賛否両論の論争を巻き起こしました。しかし次の投書が掲載されると終息しました。「私は今では30年間結婚生活をしてきました。その間、妻は32000食もの料理を作ってくれました。けれども一つとしてそのメニューを思い出すことはできません。でも次のことは確かです。この食事で私は栄養を取ることができたし、私が働くために必要な力ももらったのです。もし妻が料理を作ってくれなかったら私はとうに死んでいたはずなのです」。この投書が掲載されてからは説教についての投書は皆無となったそうです。皆様の中には、私の拙い説教を直ぐに忘れてしまわれる方もおられるでしょう。しかし聞き続けているなら少しずつでも魂の栄養になると信じてお聞きくださるならまことに感謝です。

「父の愛」

2013年6月16日

今日は「父の日」です。実は、私は父の日の生まれなのです。私の誕生日は8月8日、つまり「パパの日」だからです。「なーんだ、くだらない」とお叱りを受けそうですが、何と台湾では、8月8日が父の日として祝われているそうです。88が「パパ」という発音だからだそうです。日本では、父の娘に対する愛は見えにくいと考えられていますが、そんな父の愛を詠った詩があります。牧師であり、神学者であり、詩人でもあった松田明三郎先生が詠んだ詩です。
『娘よ、調度品の目録の劈頭に/ 一、聖書/ とパパは書くよ。/ これは鏡台などに先立つものだ。/ 鏡はそなたの姿をうつくしくしてくれるが/ 聖書はそなたの魂を/ うつくしくしてくれるはかりでなく/ その昔、嫁ぎゆく日に/ 夫の危篤の日を思いつつ/ 鏡台のひきだしの奥深く/ 秘かにしまっておいたという 人の黄金よりも/ そのまじりなき黄金よりも尊いものだ。』
松田先生は、嫁ぎゆく娘さんに、父親として与えることが出来る唯一の、そして最高のプレゼントをこの詩に託して贈っているのです。

「私の目にはあなたは尊い」

2013年6月16日

牧師就任式で、司式をされた古谷正仁師がこう言われました。「ペトロは魚を追い続けていた時には収穫はなかったが、主イエスのお言葉に従って行動した時に大きな収穫に恵まれた。伝道・牧会の業も同じで、魚(人)を追い続けるのではなく、主のお言葉に従っていく時に実りが与えられる。また、ペトロの網にはたくさんの魚が入っていた。その中には高価な魚もいたし、雑魚もいた。しかし、高価とか、雑魚とかは人間が決めることで、神様の目にはすべての魚は尊いのである。教会にも多くの人がいる。そのすべての人を、神様は尊い存在として愛しておられる。雑魚のような存在は、一人もいないのだ」。就任式にまことに相応しいメッセージをいただき、心から感謝し、何度も「アーメン」と唱和せていただきました。神様は無に等しい者を尊ばれ、御業のために用いてくださいます。教会は、お互いをそのような存在として受け入れ、認め合い、敬い合っていく群です。主は言われています、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。(イザヤ書43章4節、新改訳聖書)

「時をよく用いなさい」

2013年6月9日

今日、6月9日はドナルド・ダックが初めてアニメに登場した日です(1934年)。ところで、東京ディズニーランドには三つのモノがないそうです。まず、「従業員」がいないのです。実際にはいるのですが従業員と呼ばずに、「キャスト」(役者)と呼んでいます。ミッキーやドナルドだけじゃなくて、そこで働いているすべての人がキャストなのです。次に、「鏡」がないそうです。夢の国で鏡に映った自分を見たら、一気に我に返ってしまうからです。最後に、「時計」がないのです。いつも時間に追われている人たちに、時間を忘れさせるためです。確かに私たちは、いつも時間に追われて忙しくしています。しかし主イエスは、船で眠るほど多忙でお疲れの時もあれば、お一人で山に登られて静かに祈る時も持たれました。時間管理においても、模範はやはり主イエスです。ルターは「忙しいと言ってはいけません。多用であると言いなさい」と言いました。まさに金言だと思います。図らずも明日6月10日は「時の記念日」です。本当に時間を大切にするとはどういうことか、改めて考えたいと思います。「時をよく用いなさい」。(エフェソの信徒への手紙5:16)

「神様大好き」

2013年6月2日

ある婦人牧師(S先生)に、知的障害を持ったお子さんが与えられました。このお子さんは、幼児期は、明るくて、活発な子だったそうです。しかし、次第に自分が他の子のように行動できないことを知って落ち込むようになっていきました。ある時S先生は、創世記1章31節の御言葉を読んでいた時、神様から強い示しを受けました。「そうだ、この子は、極めて良いものとして造られたのだ。このことをどうしても伝えたい」。そう思われたS先生は、幼稚園への往き帰りを歩きながら、お子さんの手を握って「大好きよ、大好きだよ」と言い続けられたそうです。かなりの月日が流れた後、ある日突然その子が「お母さん大好き」と答えてくれたそうです。その時、S先生はハッと気付かされました。「神様は、私にも『大好きだよ』と、ずっと言い続けておられるのに、私は神様に、『大好きです』と答えることが、何と少なかったことだろうか」。私はこの話を聞いた時、こんな私にも、『お前が大好きだよ』と、ずっと言い続けてくださっている主に、『主よ、私もあなたが大好きです』と、もっと、もっと応えていきたいと心から願わされました。