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白衣の天使の言葉

「白衣の天使の言葉」

2014年3月30日

ロシアのクリミア併合の決議に世界中が揺れています。クリミアと聞いて想い起す人がいます。「近代看護教育の母」と称されるフローレンス・ナイチンゲールです。彼女は、クリミア戦争当時の2年間、傷病兵たちへの献身的な看護に従事し、「私は地獄を見た。私は決してクリミアを忘れない」と語っています。記録によりますと野戦病院で一日1,200 人もの兵士たちに、8時間も膝をついて包帯を巻き続け、夜には何千人という患者たちの見回りを行ったとされています。彼女は、“白衣の天使”と呼ばれることを善しとせず、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」と語りました。ナイチンゲールが、当時社会的認知が低かった看護の道を歩んだ契機は、1837 年2 月7 日、「私の元で奉仕をしなさい」という神様からの声を聞いたからだそうです。看護を始め広く保健医療従事者に大きな影響を与えたナイチンゲール。その生涯は神様に対する確かな信仰の上に築かれていたのです。彼女はこんな言葉も残しています。「人生でもっとも輝かしい時は、いわゆる栄光の時でなく、落胆や絶望の中で人生への挑戦と未来へ展望が湧き上がるのを感じた時だ」。

「完全な幸せ」

2014年3月23日

ある王様が「完全な幸せ」を表現できた絵に賞を与えると言った。集まった多くの絵の中で、彼が気に入った絵が二つだけあった。一つは静かな湖の絵だった。湖面には、湖を囲むなだらかな緑の山々と白い雲と青い空が映しだされていた。誰もが、この絵こそ「完全な幸せ」を表していると思った。二つ目の絵にも山が描かれていた。しかし、山は非常に険しく、空は荒れて豪雨に見舞われ、雷が落ちていた。そして、川の流れはとても激しかった。この作品からは何も平和な情景が感じられないように思えた。ところが、王が絵を更に注意深く見ると、激しい川の流れの中に一つの岩があり、その岩の割れ目から木が生え出ていた。そして、その木の上には鳥の巣があり、巣の中には一羽の小鳥が何の恐れもなく羽を休ませていた。王は迷うこともなく二つ目の絵を選んだ。そして、その理由をこう説明した。「幸せとは、雑音、困難、辛い仕事、痛みがない場所にいるということではない。幸せとは、辛く、厳しい状況に置かれても、自分の心の中に平和があることだ。これこそ、『完全な幸せ』の本当の意味だ」。主の御懐に抱かれている時、私たちはこのような完全な幸せに与れるのです。

「賢い農夫、賢い木こり」

2014年3月16日

イソップ童話にこんな話があります。あるところに「金の卵を生むガチョウ」を飼う農夫がいました。ところがこのガチョウが生むのは毎日一個だけなのです。一度にたくさんの金の卵を手に入れたくなった農夫は、ガチョウの腹を開いてみると中は空っぽだったという話です。農夫は成果を焦るあまり、肝心のガチョウを死なせてしまったのです。もし農夫が賢明であったなら、ガチョウが健康になることに力を注いだことでしょう。ガチョウが健康なら、長生きします。卵のサイズも多少は大きくなるかもしれません。成果も大切ですが、成果を生み出すガチョウはもっと大切です。だから結果より結果を作り出す元の部分を充実させることに力を注ぐことが、遠回りのようで一番の近道なのです。同じような話にリンカーンの格言があります。「もし6時間で木を切り倒すように言われたら、私は初めの4時間を使って斧を研ぐだろう」。まずは働きに使う道具を最善の状態にもっていくことが、賢い木こりのする手順です。そして私たちの主は、賢い農夫、賢い木こりです。器である私たちを健全にすることに心砕いてくださるお方です。果たして私たちは主に喜ばれる卵を生んでいるでしょうか。

「神がしてくださったこと」

2014年3月9日

豊臣秀吉の部下の一人に加藤嘉明という武将がいました。絶体絶命の戦争で無類の強さを発揮した人物です。彼の強さの原因は命知らずの家来をたくさん持っていたことにあります。ところで彼には一つ宝物があったのです。十枚一組の小皿セットで「虫食い南蛮」と名付けられた器です。それは、価が付けられないほど高価な物だと言われていました。ところが来客にこの皿を出そうとしていた時、家来の一人がうっかり一枚を割ってしまうのです。みな息をのむ中、それを知った加藤嘉明は残り九枚を持って来させ、皆の見ている目の前で、何と自ら全部割ってしまうのです。なぜそんなことしたのでしょう。九枚残っている限り、いつ誰が一枚を割ったということが、いつまでも人々の口に上るということを彼はいさぎよしとしなかったのです。部下の過ちを跡形も残さず消し去るために、彼は家宝を自ら破壊してその咎を覆ってやったのです。ところで神様はそれ以上のことを私たちのためにしてくださったのです。私たちの罪を贖うために皿ではなく、ご自分の一人子を打ち壊してくださったのです。なぜそのようなことをなさったのでしょう。これ以外に罪人が赦される道はなかったからです。

「信じるということ」

2014年3月2日

アメリカの中西部の町で、ある金持ちが町中に張り紙をしました。その紙には「この町で借金のある方は誰でも○月○日の午前9時から12時の間に当事務所に来たなら、その借金を支払ってあげましょう」と書かれていました。この知らせは町中に伝わりましたが、ほとんど誰も信じませんでした。当日、その金持ちは早朝から事務所に座っていましたが、10時になっても誰も来ません。11時頃、一人の男がおずおずとやって来て、「誰にでも借金を払ってくれるって話は本当かね」と尋ねました。お金持ちは答えました。「本当さ、もし借金があるなら、それを証明するものを提出して、この書類に記入しなさい」。男が書類に記入すると、金持ちの男は借金の全額の小切手にサインをしてくれました。12時までに、さらに二人の男がやって来て同じように借金を払ってもらいました。信じられないことでした・・・でも本当だったのです。でも町の人たちが本当だと気がついた時には、既に時間切れとなっていました。常識を超えた人の善意を信じることは、なかなか難しいということでしょうか。しかし、神様の善意(愛)はこんなものではありません。罪なきお方が罪人のために代わって死なれたのですから。あなたは、このことを信じますか。