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初めの愛から落ちる

「初めの愛から落ちる」

2014年8月31日

信徒時代に、長野県の山村の、ある小さな教会を何年か続けて訪問し、伝道のお手伝いをしたことがあります。礼拝出席者が5名という小さな群れでしたが、そこに遣わされた女性牧師は伝道の情熱に燃え、近隣の5町村の全戸にトラクトを配るという伝道計画を立てました。一時間掛けてもやっと5、6軒しか配れないような、山の中に点在する家々を訪ねて、一生懸命にトラクトを配り続け、とうとう全戸に配り終えました。しかし、それにも拘らず一人の求道者も与えられませんでした。その時、先生は、言いようのない挫折感と徒労感に襲われ、もう一歩も進むことが出来なくなりました。そんな中で、尚も必死になって祈っていると、先生の耳に、ヨハネ黙示録2章4節の御言葉が聞こえてきたそうです。「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」。「あぁ、そうだ、私は一生懸命働いているうちに、初めの愛から離れてしまっていた。もともと伝道の結果は主に委ねて始めた業だったのに、いつの間にか自分の努力が報いられなければ不当だと思うようになってしまった」。先生は、そこから再び立ち上がっていかれました。このような伝道者のことを覚え、祈ってまいりたいと思います。

「ある靴職人の祈り」

2014年8月24日

ある靴職人が老牧師のもとを訪ねて言いました。「先生、教えてください。朝の祈りをどうすればいいでしょうか。私のお客さんは一足の靴しか持たない貧しい人ばかりです。私は一晩中仕事をして、彼らが仕事に出かける前に、何とか彼らの靴を仕上げようとするのですが、明け方になってもまだ仕事が残っている始末です。朝の祈りをどうすればよいでしょうか」。老牧師は尋ねました。「今までどういうふうにしてきたのかね」。「時にそそくさと祈りをすませ、仕事に戻ります。そういう時、良心の呵責を覚えます。また時には一時間祈ります。でもそうすると貧しい人の靴を修理できず、彼らを困らせてしまいます。こういう時、私は空しさに襲われます。また時折、ハンマーを振り上げる時、心の中でため息をついています。『私はなんと不幸せな男だ、朝の祈りも満足にしないとは』と」。老牧師は言いました。私が神なら、数々の祈りより、そのため息をこそ尊ぶだろう」。神様は、私たちのすべてをご存知です。祈りと呼ぶことすらできないような、言葉に言い表せない、胸の奥の呻きをも聴いていてくださっています。だから、私たちは神様に心の内をすべて打ち明けてよいのです。

「私から目を離さないでいなさい」

2014年8月17日

先週に引き続き、ミス・モークというアメリカ人宣教師の話をさせて頂きます。ミス・モークは第2次大戦中も愛する日本に留まったため、敵国人として抑留所に収容されました。いよいよ日本の敗戦が決まったという日に、抑留所内に流言飛語が飛び交ったそうです。明日、外国人は全員銃殺される、という噂です。彼女も長い抑留生活のために、さすがに疲れ果て、不安と恐怖に怯えていました。そんな時、がらんとした部屋の片隅に一人の男の人が立っていた、というのです。婦人ばかりの抑留所に男の人は考えられません。その男の人はうなだれていましたが、やがて顔を上げて彼女を見つめました。それは主イエスでした。ミス・モークは思わず言いました。「どうぞ主よ、私から目を離さないでください。私の魂は、こんなにも不安なのです」。すると主は、こう言われたそうです。「あなたの目を私から離さないで居れば、それでよいのですよ」と。彼女は言っています。「私たちの目を、いつも主イエスに留めていようではありませんか。私たちは、『昨日も、今日も、永遠に変わることのない主イエス』を、いつも見つめることによって、望みを失わずに生きることが出来るのです。」

「私の上に爆弾を」

2014年8月10日

第2次大戦中、ほとんどのアメリカ人宣教師は帰国しました。しかし、ごく少数の宣教師は日本に留まりました。小石川白山教会で40年近くも伝道されたミス・モークという宣教師もその一人です。ミス・モークは、愛する日本人と同じ苦難を耐え忍びたいと願い、帰国を拒み伝道を続けましたが、すぐに抑留所に入れられてしまいました。ある時、ミス・モークは、抑留所で作業員が防空壕を掘っているのを見かけて、「あれは誰のための防空壕ですか」と尋ねました。聞かれた人は不愉快そうに答えました。「誰のためかって。あんたのためだよ」。それを聞いて、ミス・モークは真剣な顔でこう言いました。「もし、私のための防空壕であるなら、必要ありません。私は、毎日落ちる爆弾によって、愛する日本の子どもたちが命を落としているかと思うといたたまれず、どうか爆弾を自分の上に落としてください、と祈っているのです。ですから、私のための防空壕であるなら直ぐに中止してください」。これを傍らで聞いていた抑留所の所長は、もしこれがキリスト教というものであるなら、私もキリストを信じたい、と思ったそうです。そして、戦後に、洗礼を受けクリスチャンになったそうです。

「過ちは繰り返しません」

2014年8月3日

広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれている言葉、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」。この慰霊碑が建てられた当初から、「この言葉の主語は誰か、過ちを犯したのは誰か」、という問いがなされてきました。英語の訳では、主語は「We(我々)」です。We(我々)とは誰か。原爆を投下したのはアメリカだから、主語はアメリカ人だ、という意見もありましたが、これは直ぐに否定されました。戦争を起こしたのは日本人だから、主語は日本人だ、という意見も出ました。現在では、この言葉の主語は、世界中の人類全体を指すという解釈が公式見解となっています。しかし、今は帰天されたある広島の牧師はこう言っていました。「この言葉は私たち広島市民の心の底から絞り出た叫びなのだ。あの時、「助けて」、「水をくれ」という声を聞きながら、迫ってくる炎を見て、私は「すまん」と言ってその場を逃げ去った。今度同じようなことがあったら、焼け死んでもいいから仲間を助けたい」。牧師であっても逃げたのです。そのことを思う時、私たちを救うために、自ら十字架を背負われて、ゴルゴダへの道を歩まれた主イエスのお姿が、限りなく尊いものとして私たちに迫ってきます。