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2%の余地

「2%の余地」

2015年6月28日

カトリックの渡辺和子シスターがこう書いています。『私は学生たちに、「人間は決して完全に分り合えない。だからどれほど相手を信頼していても、100%信頼しちゃだめよ、98%にしなさい。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておきなさい」と言っています。100%信頼した出会いはかえって壊れやすいと思います。「あなたは私を信頼してくれているけれども、私は神様じゃないから間違う余地があることを忘れないでね」ということと、「私もあなたを他の人よりもずっと信頼するけど、あなたは神様じゃないと知っているから、間違ってもいいのよ」ということ……。そういう「ゆとり」が、その2%にあるような気がします。この世に完璧な人間などいないのです。心に2%のゆとりがあれば、相手の間違いを許すことができます。』名言だと思います。しかし、主イエスの愛は完全な愛ですから100%信頼して良いのです。また主イエスは私たちを100%信頼してくださいます。でも私たちはその信頼を直ぐ裏切ります。それでも私たちに対する主イエスの信頼は崩れないのです。2%の余地を必要とするのが人間です。それを必要としないのが主イエスです。この2%の差は限りなく大きいのです。

「ナポレオンの遺書」

2015年6月21日

ナポレオンの遺書の抜粋を紹介します(シカゴ大学図書館蔵)。『私は、大胆に、キリストを信じますと大声で告白できなかった。/そうだ、私は自分がクリスチャンであると告白すべきだった。/今、セントヘレナにあって、もはや遠慮する必要はない。/私の心の底に信じていた事実を告白する。/私は、永遠の神が存在していることを信じる。   私は、永遠の神キリストを認める。/私は、キリストを必要とする。/私は、キリストを信ずる。   昨日の我が友はいずこへ。/ローマの皇帝カイザルもアレキサンダー大王も忘れられてしまった。/私とて同様である。/これが、大ナポレオンと崇められた私の最後である。   イエス・キリストの永遠の支配と、大ナポレオンと呼ばれた私の間には、大きな深い隔たりがある。/キリストは愛され、キリストは礼拝され、キリストへの信仰と献身は、全世界を包んでいる。 /これを死んでしまったキリストと呼ぶことが出来ようか。   イエス・キリストは、永遠の生ける神であることの証明である。/私ナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。/イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている。』死を目前にした者の言葉は真実です。

「祈り続ける」

2015年6月14日

先週、藤田修幸君が、5時半発の電車に乗って、前橋から礼拝に出席してくれました。私が清水ヶ丘教会に仕えていた時、当時中学生であった藤田君が教会に飛び込んできました。その後、欠かさず礼拝を守り、聖書を熱心に学びました。受洗を希望しましたが、母親の強い反対に遭って叶いませんでした。でも、彼は祈り続けました。そして6年後の昨年10月に、転居先の前橋教会において受洗へと導かれました。彼から、祈り続けることの大切さを改めて教えられました。こんな話があります。「ある人が天国で大きな小包の山を発見しました。よく見るとその山の中に自分宛の小包もありました。彼は、案内人に「これは私宛の小包ではありませんか。どうしてここにあるのですか」と聞きました。その案内人は答えました。「これは、皆、受取人不在のために返送されてきたものです」。この話は、熱心に祈っていたが、やがて祈るのを諦めてしまったところ、その後に神様から祈りの答が届いた。でも、その時には祈りが途絶えていたために、その答が届かなかった、という譬えです。私たちは、主が、いつか必ず答えてくださることを信じて、諦めることなく祈り続けていきたいと思います。

「三人の偉大な教師」

2015年6月7日

ある人がこんなことを言っています。授業料の高い先生とは「経験」。恥をかく、痛い目に合う、望んでいたものを失うなど犠牲は大きいですが、それだけに身にしみて学ぶものです。それに対して授業料の安い教師、それは「聖書」です。たったの数千円で、最も大切なこと、役立つことを学べるからです。しかし残念ながら、私たちはあまり聖書から学びません。読んで、正しく理解し、実生活に適用する。このルートをいつも辿れる程、私たちは賢くもなく、強くもないのです。正しく理解できず、適用もせず、痛い目にあって初めて聖書の真理の正しさを体験する、というのが私たちです。結局、高い授業料を払って、安い授業料で済む学科を習得しているのです。さて、三人目の教師。それは他人に高い授業料を払わせておいて、自分が学ぶという教師。それは「歴史」です。先輩クリスチャンの体験は歴史となり、後輩たちが大いに学ぶ対象となります。聖書の学びはもちろん大切です。しかし、先輩たちの信仰生活での体験や証しを通して、後輩クリスチャンは造られるのです。教会教育とは聖書を教えるだけでなく、そうした生活や交わりに生きる中で、後輩が成長することを意味します。