MENU

ハレルヤコーラスとゴスペル

「ハレルヤコーラスとゴスペル」

2015年7月26日

ゴスペルには楽譜がありません。歌詞も短い言葉の繰り返しです。初代教会時代も楽譜などなかったので、短い信仰告白に簡単な抑揚をつけた讃美歌が多かったようです。5節までもある讃美歌は、印刷の技術が発達して、皆が同じ楽譜、同じ歌詞を見られるようになってから歌われたのです。先日、楠山光彦兄のご葬儀でメサイアの「ハレルヤ」を合唱しました。そして12日の礼拝後には沢井兄のご指導でゴスペルを賛美しました。ある音楽家が言っています。「ゴスペルもメサイアも短い歌詞の繰り返しである。だから、メサイアは当時のゴスペルであったと言えるのではないか」。興味深い指摘です。バッハは、200曲近い教会カンタータを作っていますが、歌詞はすべて聖書からの引用です。それ故「第五福音書記者」とも言われています。バッハは、神様を喜ばせることが出来るなら、すべては神様への奉仕であり、すべて美しいことは聖であるという信仰を持っていました。ですから多くの世俗曲をリメイクして教会音楽にしています。適当と思えば同じ曲を何度でもリメイクしています。バッハはかなり自由に教会音楽を作ったのです。私たちの賛美も、もっと自由であってよいかもしれません。

「身近な幸せ」

2015年7月19日

お金持ちの観光客がビーチを歩いていると、漁師がカヌーの側でうたた寝をしているのを見ました。「どうして漁に出ないのかね」と観光客は尋ねた。 「今日の分はもう獲ったんですよ」と漁師は答えた。「しかしどうして、もっと獲って、お金を作って網を買おうとはせんのかね。そうすればもっと魚が獲れるようになるのに」。「なんのためにですかね?」。「そうすればモーターを買って、もっと条件の良い漁場に出かけていけるようになるじゃないか」。「でもなんで、もっと魚を獲るのかね?」。 「そうすればもっとお金を稼いで、大きな船団を手に入れることもできるようになるよ」。「それで?」。「そうすればあんたはお金持ちになって、時間をのんびりと楽に過ごせるようになるからだよ」。「なんだ、それはもうやっていることだよ」。本当の幸せは身近なところに用意されているのです。作家の椎名麟三は人生の意味を見いだせずに苦悩していた時、ドストエフスキーの「悪霊」の中の「人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからだ」という言葉に出会いました。この言葉から求道し、キリストに愛されている自分を発見し、受洗して、人生の意味を見出したのです。

「避難と逃避」

2015年7月12日

信仰は「逃避」ではないかと誤解されることがあります。確かに「主は私の避けどころ」という御言葉があるように、信仰には、主の許に身を避けるという面があります。しかし、これは「避難」であって、「逃避」ではありません。両者は目的が異なります。再び辛い現実や課題に向き合うために、一時的にそこから退くことが「避難」。それに対して、退くこと自体が目的となっているのが「逃避」です。聖書は、人間の弱さをよく知っています。ですから、戦うばかりではなく、時として「逃れる」ことも勧めています。第一コリント10:13は言っています。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。ここにある「逃れる道」とは何でしょうか。「神は真実な方です」。この言葉がその答えです。真実なる神がいつも共にいてくださる、その御手の中こそが、逃れる道なのです。確かに「主は私の避けどころ」です。しかし、それは逃避でなく、一時避難です。その目的は、再び立ち上がって、現実と課題に向き合うためです。そための休息と準備のために主が備えてくださった時なのです。

「ありのまま、そのままの美しさ」

2015年7月5日

恵泉女学園の創立者河井道先生の著書に、こんなことが書かれていました。卒業の直前に洗礼を受けたある学生が先生に手紙を送りました。キリスト教に批判的であったこの人は、卒業前の修養会において突然のように主イエスの愛を知ったのです。そして夜明けの光がだんだん明るくなって、昼の光となったと言っています。その明るい光の中で、物事がはっきり見えるようになっただけでなく、「物ごとを、それ自体の美しさのまま見るようになった」というのです。すべての物は本来美しい筈です。なぜなら、神様がすべて「よいもの」として造られたからです。この学生は神様の愛を知ったとき、その愛である神様が造られたすべてのものの、それ自体の美しさを見ることができるようになったのです。それには隣人も含まれていることでしょう。神様が私を愛の対象として造られたことを知った時、神様が同じように愛をもって造られた、すべての物を(身近な隣人も含めて)、それ自体の美しさのままに見ることができるようになるのだと思います。私たちの心が神様の愛に覆われる時、この学生のように、私たちは物ごとすべてをそれ自体の美しさのまま見ることができるようになるのです。