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最も美しい音は聞こえない?

「最も美しい音は聞こえない?」

2015年10月25日

音楽プロデューサーの輪嶋東太郎さんがこんな文を書いています。『韓国のテノール歌手ベー・チェチョル。アジアのオペラ史上最高のテノールと称されたが、甲状腺のがんにより人間が声を発するために必要な神経のすべてを切断するという悲劇を経験しながら、人類の歴史上でいまだかつてないような奇跡を体現し、舞台に復帰。多くの人にその歌を通して、愛と祈りを伝えている。演奏会で、必ず歌う前に後ろを向いて短く祈りをささげる彼に、「何を祈っているのか」と尋ねたことがあった。「一音たりとも、自分をひけらかすということがなくなりますように。すべての音を、あなたのために歌う自分でいられるように、私を縛ってください」と神様に祈っている。彼は私にそう答えた。その彼と共に歩く道を与えられた私は、その過程で主に出会い、そして「音楽の最も美しい部分は、耳には聞こえない」という、宝のような気づきを得た。それは、愛や祈りのような、一種の周波数のようなものなのかもしれない。』状況は異なりますが、私も説教の前に同じような祈りを献げます。「どうか、一言たりとも自分をひけらかすことがありませんように。ただ主の栄光のみが輝きますように。」

「輝く日を仰ぐとき」

2015年10月18日

多くの人たちによって愛されている讃美歌21の226番はこのように歌っています。「輝く日を仰ぐとき / 月星ながむるとき / いかずち鳴り渡るとき / まことの御神を思う」。「森にて鳥の音を聞き / そびゆる山に登り / 谷間の清き流れに / まことのみ神を思う」。この讃美歌は、心から神様を慕う思いをもって見るならば、自然界の至る所で神様の御業を見ることができる、と歌っています。そこに、神様がおられることが分かる。しかし、そのような思いを持たない人には、それらはただの美しい風景にしか過ぎないというのです。この讃美歌の作者は、カール・ボーベリーというスウェーデン人です。1885年の夏のことです。ボーベリーはスウェーデン南東部の海岸を訪れていました。その時、激しい雷雨に見舞われました。まもなく雷雨は上がり、小鳥が再び歌い始めて、入り江の奥から教会の鐘の音が水面を伝わって響いてきました。その時ボーベリーは、神様の創造の御業に心を打たれて、思わずひざまずいて神様を賛美してこの歌を作ったと言われています。私たちも、日常の生活の多くの場面を通して、私たちに語り掛けてくださる神様の御声を聞き洩らすことがないようにしたいと思います。

「祈りは信仰の呼吸」

2015年10月11日

「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」今年度の主題聖句であるコロサイの信徒への手紙4章2節の御言葉です。なぜ「ひたすら祈る」ことが勧められているのでしょうか。祈りが途絶えると信仰が死んでしまうからです。祈りは信仰の呼吸です。息をしなければ命が絶えてしまうように、祈らなければ信仰は活き活きとした力を失ってしまいます。祈りには上手・下手の区別はありません。心にあるままを神様に伝えれば良いのです。私たちはどこかで立派な祈りをしなければいけないと思い込んでいます。ですから祈ることをためらってしまうのです。献金感謝の祈りも立派に祈ろうなどと思わなくてよいのです。このように祈れば十分です。「天の父なる神様、今朝、私たちを礼拝に招いてくださって感謝いたします。与えられた恵みに応えて献金をお献げします。私たちの献身のしるしとしてお受け入れください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン」この短い祈りに、祈るべきことがすべて含まれています。ですから、どなたでも祈れる筈です。どうか、ためらうことなく献金感謝の祈りのご奉仕に加わってください。あなたの祈りを主は喜んで受け入れてくださいます。

「逆境の時には」

2015年10月4日

野球のイチロー選手がこう言っていました。「スランプ(打撃不振)に陥ると、直ぐに人はバッティングの技術とか、身体能力の話をするが、問題はそこにあるのではないと思う。そういう時に一番問われるのは人生に対する考え方とか生きる姿勢だと思う。そこでどのように生きるかが一番問題なんだと思う。目先の結果を求めて、自分の生き方を変えてみようという誘惑に駆られることがある。しかし、そういう解決は短期的には成功するかもしれないが、決して長続きしないと思う」。彼の言葉は、私たちの信仰生活にも当てはまります。信仰生活にもスランプはあります。信仰を持った当初は誰もが熱かった筈なのに、次第に情熱が薄れていく。そんな時は目先の結果を安易に求めて右往左往するのでなく、原点に返り、初めの信仰に再び立つことが大切だと思います。主イエスは、絶えず私たちの信仰を、リセット(再生)しようとしておられます。スランプの時こそ、今直面している苦しみが、新たな信仰の飛躍への出発点ともなり得ることを信じましょう。古の賢者は言っています。「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」(コヘレトの言葉7章14節、新改訳聖書)。