「理解されない愛」
2015年11月29日
東日本大震災直後、「思い」は見えないけれど「思いやり」は誰にでもみえる、という言葉がテレビで頻繁に流されました。確かに「思い」よりは「思いやり」は見えやすいですが、「誰にでも見える」のかは疑問です。精一杯の思いやりを、受け止めてもらえなくて苦悩している人は沢山いるからです。ところで、思いやりを受け止めてもらえなくて、一番悲しい思いをされたのは、他ならぬ主イエスなのではないでしょうか。あの時人々は、主イエスの思いやりを受け止めることが出来なかった。いや、思いやりなどと言うような生易しいものではない。主イエスの命懸けの愛を受け止めることが出来なかった。一番身近にいた弟子たちでさえ、その愛を見ることが出来なかったのです。ですから、主イエスは、人々の無理解の中を、お一人で十字架に向かわれたのです。最後まで、孤独の中を歩まれたのです。私たちも、思いやりが受け止められないという経験をする時があります。でも、そのような時は、十字架の主を見上げていきたいと思います。十字架の主イエスは、きっと私たちにこう言われると思います。私は、あなたの悲しみを知っている。私自身が、もっと深い悲しみを味わったから。
「主によって尚も喜ぶ」
2015年11月22日
60年ほど前、若いアメリカ人女性宣教師が滋賀県の長浜で伝道を始められました。先生は熱い祈りと期待をもって3日間に亘る伝集会を計画したそうです。祈りつつ参加者が来るのをひたすら待ちました。しかし、祈りに祈って待ち続けたにも拘らず、一人の参加者も与えられなかったのです。先生は本当に失望して、もうこの地における伝道は諦めようと思ったそうです。しかし、その翌朝のディボーションの時にハバクク書の3章17節~18節が示されたそうです。「いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの枝は実をつけず/オリーブは収穫の期待を裏切り/田畑は食物を生ぜず/羊はおりから断たれ/牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る」。この御言葉が先生の心に飛び込んできました。いちじくも、ぶどうも、オリーブも、そして田畑の麦や野菜も何一つ実を結ばず、羊も牛もいなくなってしまった。どこにも喜びが見えない。しかし、私には主がいてくださる。この主によって、私は尚も喜ぶことが出来る。尚も踊ることが出来る。この御言葉に励まされて、先生は再び立ち上がり、長い苦労の末に現在の長浜キリスト教会が立てられたそうです。
「幸せになる秘訣」
2015年11月15日
ある村にエレーナという少女が住んでいました。ある日エレーナは、木イチゴの茂みの中に蝶がからまって、もがいているのを見つけました。エレーナは羽が傷つかないように注意しながら、蝶を逃がしてあげました。蝶はエレーナに言いました。「優しく親切にして頂いたお返しにあなたが一番望むことをかなえてあげましょう」。エレーナは答えました。「それは幸せになることです」。蝶は、エレーナに何やら囁いて飛び去りました。やがてエレーナは成長し、村一番の幸せ者になりました。村人がエレーナに幸せの秘密を尋ねると、彼女は「私は蝶の言つけを守ってきただけなのよ」と答えました。月日が過ぎ、エレーナは老人となりましたが、やはり村一番の幸せ者でした。人々は、亡くなる前にエレーナの幸せの秘密を是非とも知りたいと思って、エレーナに熱心に尋ねました。エレーナはついにその秘密を明かしました。「蝶は、私に教えてくれたのよ。私の出会うどんな人に対しても、その人のためにお仕えして、私の真心を尽くしなさいって」。これは主イエスが仰った言葉と同じです。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタイによる福音書 7:12)
「幸せのかけら」
2015年11月8日
「マリナと千冊の絵本」という本があります。著者の原ひろこさんの4人目の子(二女)のマリナさんは、生後2週間で細菌性の骨髄炎に罹り、脳に重い障害を負ってしまいます。マリナさんが4歳の時からひろこさんは一日20冊のペースで絵本を読んで聞かせました。普通に会話もできないマリナさん。「でも、絶対にいつかはお話できるようになる」。その想いを胸に21歳の時(2007年)までに、およそ千冊の絵本を読んで聞かせました。この本の中に「幸せのかけら」という詩があります。「何もなかったように過ぎていく毎日/わけもなく過ぎていく日々/どの日もこの日も 大切に思えるのは/あなたがいるから……あなたが何かひとつ出来るたび/うおおーと 大きな声で叫びたくなる/当たり前のことが 奇跡のように思える瞬間/心の底から喜びが沸き立ち 感謝せずにはいられなくなる/あなたがいるから/母さんは/幸せのかけら拾いの名人になれた」。ミッションスクールの毎朝の礼拝が、いやで堪らなかった。でもその時に聞いた聖書の言葉が色々なピンチの中でよみがえってきて、この苦労も神様が与えてくれたもので、何か意味があるかもしれないと思うようになった、と原さんは書いています。
「ルターを支えた御言葉」
2015年11月1日
昨日(10月31日)は宗教改革記念日でした。498年前(1517年)の10月31日、マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に95ヶ条の論題を張り出したことから宗教改革のうねりが起こりました。ルターが、「信仰によってのみ義とされる(信仰義認)」という福音の再発見をしたのは、ヴィッテンベルク大学の塔内の図書室においてローマの信徒への手紙を読んでいた時であると言われています。ルターの宗教改革の出発点において与えられたのがローマの信徒への手紙であったとすれば、ルターの人生の最後に与えられた御言葉は何だったのでしょうか。ルターは最期に、ヨハネによる福音書3章16節の御言葉を祈りつつ息を引き取ったそうです。「『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』。これは本当のことだ」。これがルターの最後の言葉であると伝えられています。ヨハネによる福音書3章16節の御言葉は「小福音」とも呼ばれていて、この御言葉に福音書全体が要約されていると言われています。生涯を通して厳しい信仰の戦いをしたルターは、最後まで福音の恵みに生かされつつ歩んだのです。