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主の手足になる、パート2

「主の手足になる、パート2」

2016年9月25日

9月4日に続き、主の手足となる、ということについての例話です。男は森で、ぼろをまとい寒さに凍えている少女に出会った。満足に食べてもいないらしい。彼は腹を立て神に向かって言った。「どうしてこんなことを許しておかれるのですか。何とかなさったらいかがです。」神は何も言われなかった。しかしその夜不意にお答えになった。「私が何とかしたのは確かだよ。お前を造ったではないか」。私たちは神様に、何とかしてくださいと訴えるばかりで、なかなか自分が神様の手足になろうとしません。しかし神様はご自身の手足になって欲しいと願っておられます。そのために私はあなたを造ったのだと言っておられます。40年近く前に作られたゴスペルに「主の手足になろう」という曲があります。2節はこう歌っています。「みんなで十字架をとろう/世界を救うために/主のみ手は傷ついている/みんなで主の手になろう 」。3節、「みんなで伝道しよう/福音を満たすために/主の足はいたんでいる/みんなで主の足になろう」。主の御手が傷つき、主の足が痛んでいるのは、私たちのために十字架にかかられたからです。この主の愛に応えて主の手足とならせて頂きたいと祈ります。

「アホ忠(ちゅう)」

2016年9月25日

9月4日の説教で紹介した升崎外彦牧師は、和歌山県の南部という町に労祷学園という学校を開きました。そこに山本忠一という知恵遅れの少年が加わりました。親類からも見捨てられて乞食をしていた忠一を升崎が引き取ったのです。人々は彼をアホ忠と呼び、労祷学園をアホ学園と呼びましたが、升崎は彼を忠ヤンと呼んで可愛がりました。放蕩癖のある忠ヤンは、ある日出掛けたまま帰って来なくなりました。数年後、一人の紳士が升崎を訪ねて来て、忠ヤンのことを報告しました。忠ヤンは機帆船幸十丸に乗って働いていましたが、その幸十丸が大しけに遭って座礁しました。破れた船底から激しく浸水して一同が遭難死を覚悟したとき、船底から誰かの叫ぶ声が聞こえました。見ると忠ヤンでした。彼は船底の穴に自分の太ももを突っ込んで浸水を止め、必死になって「船を早く陸に上げて」と叫んでいたのです。船員たちは必死になって水をかき出し、船を陸に近づけて助かったのですが、忠ヤンは右大腿部をもぎ取られ出血多量で死んでしまいました。アホ忠と呼ばれた知恵遅れの青年が数名の命を救ったのです。升崎から教えられた「友のために命を捨てる愛」を忠ヤンは実行したのです。

「ぼくたちのこたえさ」

2016年9月11日

9月4日、津久井やまゆり園の殺傷事件犠牲者を悼むライブが渋谷で行われました。開いたのは知的障がい者13人と健常者7人で編成するロックバンド「サルサガムテープ」。元NHKの歌のお兄さん、かしわ哲(柏 牧師の弟)が22年前、秦野市で知的障がい者の人たちと結成したグループです。お金も楽器もないのでポリバケツにガムテープを貼った太鼓を作って演奏しました。それがバンドの名前になりました。やまゆり園でも数回ライブを開き、入所者には元メンバーもいます。事件を起こした植松聖容疑者は「障がい者はいらない」と言っています。しかし、かしわ哲が作ったオリジナル曲「ぼくたちのこたえ」はこう歌っています。「やられたら、やり返す/受けた痛みを、倍にして/悪い奴は、打ちのめせ/一人残らず、叩き潰せ/ぼくらはそんなことしないさ/わらってゆるしてやるさ/しかえしなんかしないのさ/それがぼくたちなのさ/ぼくたちのこたえさ」。サルサガムテープのライブで、いつも感じるのは「心のバリアフリー」が、そこにはあるということです。「わたしの目に、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。この御言葉がそこで歌われていると感じるのです。

「主の手足になる」

2016年9月4日

マザー・テレサは「私たちには大きなことはできません。小さなことを大きな愛をもってするのです」と言いました。小さなことを、大きな愛と祈りをもって着実に行っていく時、私たちは神様の手足となることが出来る。そのことを伝えるエピソードがあります。激しい空襲の後、防空壕から出た村人たちは、黙々と再建にとりかかった。丘の上の小聖堂も瓦礫の山となっていた。人々は廃墟の中から何日もかかって目指すものを見つけ出した。それは皆が慕っていたキリスト像だった。しかし爆撃によって手も足も無くなっていた。あのキリスト様をどうしたらいいだろう、とさまざまな議論がなされた。そんなある日、村人たちは小聖堂に壊れたキリスト像が掛けられているのを見つけた。手もなく、足もない姿のままで。その傍にこんな言葉が書いてあった。「あなたがたが私の腕になりなさい。あなたがたが私の手になりなさい。あなたがたが私の足になりなさい。」私たちには大きなことはできません。でも小さなことを着実に行って、主の手足になりなさいと言われるなら、少しは出来るような思いになります。一歩踏み出そうという思いに導かれます。主は、それを願っておられるのです。