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一粒の麦

「一粒の麦」

2017年4月30日

三浦綾子さんの小説『塩狩峠』は長野政雄という実在の人物がモデルになっています。彼は最初の内はキリスト教を毛嫌いしていました。しかしいつしか、自らを犠牲にして人を生かした主イエスのことを深く思うようになり、主イエスの言葉に従って生きて行くことを決心し、洗礼を受けます。小説の最後で、彼は、自分の乗っていた汽車が突然逆走してしまうという出来事に遭遇します。乗客が混乱する中、彼はただ一人、客車を止めることに努め、最期は自らを線路に投げ打ち、その下敷きになって客車を止めました。主イエスは、一粒の麦が地に落ちて死んだなら、豊かな実を結ぶようになると言われました。一粒の麦が地に落ちて死んだように、十字架で死なれ、そこから甦られたキリストの永遠の命を受け取った長野さんは、キリストのように周りの人たちのため、また神のために自分を献げて生きる生き方に導かれたのです。この小説を読んで、主人公の犠牲の死に感動して、聖書を読み始めた人が多くいます。長野さんは、まさに一粒の麦として死んで、そして生きたのです。復活の主イエスは、自分のためだけではなく、人のため、神のために生きる生き方へと、私たちを招いています。

「光と闇」

2017年4月23日

今朝から礼拝においてヨハネの手紙一を読んでいきますが、その1章5節は「神は光であり、神には闇は全くない」と言っています。神様は光であるので、光の性質をすべて持っておられるというのです。光は命を生み出します。光が全くないところでは命は育ちません。同様に神様はすべての命の源です。次に光は本当の姿を明るみに出します。つまり光は真理なのです。そして光は汚れを清める働きをします。光は清さを意味するのです。また正しい者は光の中を歩みますが、正しくない者は光を避けます。光は正しさ、義の象徴なのです。更に、光の中を歩くということは、愛の中を歩くということです。この手紙の2章10節はこう言っています。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。」こう見てくると、光の性質とは、命であり、真理であり、清さと正しさと愛であることが分かります。神様はそのようなお方なのです。この光に対して闇が対照的に存在します。光が無いことが闇です。つまり神無き世界が闇なのです。苦難が闇なのではありません。苦難は神様がおられないことではありません。神様と共にいるなら苦難の中でも光の中を歩めるのです。

「生きておられるキリスト」

2017年4月16日

第一国立銀行や東京証券取引所などを創立し、日本資本主義の父と称される渋沢栄一がアメリカに行った時、百貨店王と言われ当時商務長官だったジョン・ワナメカーの世話を受けました。熱心なクリスチャンであったワナメーカーは、ある日曜日、渋沢を教会の日曜学校に招いてスピーチを頼みました。渋沢は「私は論語を毎日読んでいる。私は仏教も儒教もキリスト教も同じだと思う」と話しました。するとワナメーカーは立ち上がって「今、東洋の紳士が、キリスト教も仏教も儒教も同じだと言われましたが、私は絶対に違うと信じる。なぜなら孔子も釈迦も死んでそのままであるが、キリストは一度死んだが、死者の中から復活させられて、今もこの所に、私たちの中におられる」と涙を流しながら語ったそうです。後日、渋沢はアメリカ滞在中、最も印象深かったことはこの場面だったと記者団に語ったと言われています。お寺の五重塔は釈迦の遺骨を収めるためのものです。中国山東省には孔子とその一族の墓があります。しかし、教会にはそのような記念物はありません。なぜならキリストは復活されたので遺骨がないからです。ワナメーカーはこの決定的な違いを涙ながらに語ったのです。

「父の涙と主の血潮」

2017年4月9日

受難節の讃美歌「血しおしたたる」(311番)はドイツ最大の賛美歌作家と言われているパウル・ゲルハルトの作詞です。彼は15歳年下のアンナという女性との結婚を強く望みましたが、彼女の父親の猛反対に遭ったため、なんと出会いから13年後にやっと結婚することができました。結婚の翌年に娘が生まれましたが、その子は僅か8カ月で亡くなってしまいます。その同じ年に、この讃美歌は作られました。ですからこの讃美歌は、娘を失った悲しみの中から生まれたのではないか、と推測する人もいます。同じように娘を失った悲しみから生まれたゴスペルがあります。岩淵まことさんの作詞・作曲による「父の涙」という歌です。愛する娘さんを失った悲しみの中で岩淵さんは、十字架の独り子をじっと見つめている父なる神様のお姿を心の目で見たのです。父なる神様が流されている涙を見たのです。そして歌が生まれました。『心にせまる父の悲しみ/愛するひとり子を十字架につけた/人の罪は燃える火のよう/愛を知らずに今日も過ぎて行く/十字架からあふれ流れる泉/それは父の涙/十字架からあふれ流れる泉/それはイエスの愛』。主イエスの十字架の血潮は父の涙でもあるのですね。

「恵みと悲しみが流れる十字架」

2017年4月2日

受難節の讃美歌297番「栄えの主イエスの」と、298番「ああ主は誰がため」は、いずれも英国の牧師アイザック・ウォッツが17世紀末に作詞したものです。ある人が、297番は英語讃美歌の中で最も優れたものであると言っています。当時英国では、礼拝で詩編しか歌われていませんでした。青年ウォッツは、それでは主イエスの十字架という尊い救いを歌うことができないと、父親に不満をぶつけました。「それなら自分で書いて見なさい」と父親に勧められて、ウォッツは多くの素晴らしい讃美歌を書きました。297番はその代表作です。十字架の主イエスの御頭、御手、御足から、恵みと悲しみの血が混ざり合って流れている。そのことを想い起す時、自分が今まで大切だと思っていた世の富や名誉は実は損失であると、ウォッツは悟ります。自分が誇るべきことはただ一つ、私のために死なれたキリストだけなのだ。その愛に対して自分の全てを献げる他はない。この思いが込められた歌詞に、「米国の賛美歌の父」と呼ばれているローウェル・メイソンが曲を付けたのが297番です。また、298番は、米国の賛美歌作者ファニー・クロスビーが回心した時、大きな影響を与えた讃美歌であると言われています。