MENU

渡り鳥の祈り

「渡り鳥の祈り」

2017年5月28日

鎌倉・東慶寺の墓地の左手の最も奥に、詩人高見順の墓があり小さな詩碑が立っています。そこに詩集『死の淵より』に納められている「赤い芽」という題の短い詩が刻まれています。『空をめざす 小さな赤い手の群(むれ) 祈りと知らない 祈りの姿は美しい』。この赤い手の群とは楓の葉のことだと思いますが、私はなぜか空を飛ぶ渡り鳥の群れを連想してしまいました。渡り鳥の飛ぶ姿も「祈りと知らない祈りの姿」を思わせます。渡り鳥が逆V字編成で飛ぶ理由は、先頭の鳥の羽ばたきによって上昇気流が生まれ、後続の鳥が楽に飛ぶことができ、先頭の鳥が疲れると最後尾に回って、別の鳥と交代するからだそうです。そのことによって一羽で飛ぶよりも7割も遠くまで飛ぶことができることができるそうです。また一羽が疲れて脱落すると、二羽の鳥が付き添って地上に降り、体力が回復すると後で飛んで来た別の編隊に合流するそうです。まことに見事な協力体制です。鳥たちは祈りと知らずに祈り合い、助け合って飛んでいるのです。教会もそのような信仰者の群でありたいと思わされました。教会員が知らず知らずの内に祈り合い、助け合って信仰の旅路を歩んで行きたいと願います。

「眞の支配者は誰?」

2017年5月21日

先週に引き続きディボーションガイド「デイリーブレッド」から引用させて頂きます。『クヌート王は11世紀にイングランドを支配した王で、強大な権力の持ち主でした。彼は浜辺に座って「私は支配者だ。それゆえ命令する。この地に潮を満ちさせてはならない。私の服や足を濡らしてはならない」と海に命令しました。しかし潮は満ちてきて王の足は水に浸かりました。これを見てクヌート王は次に「王の力は無であると世界に知らしめよ。天も地も海も従うお方に誉れあれ!」と語ったそうです。つまり、この話の要点は「神こそが唯一力あるお方だ」ということなのです。ヨブも同じ発見をしました。なぜ私がこんな苦難に遭わなければならないのかと激しく訴えるヨブに、神様はご自身を現わされました。しかしヨブの苦難の意味を教えられたのではなく、ご自身が創造主であるということを示されただけでした。でもヨブはその神様のお言葉に、全面降伏してしまうのです。自信過剰になった時、浜辺に行って潮に満ち引きを止めさせたり、太陽を傾かせたりできるか考えてください。誰が支配者なのかすぐに分かります。そして、自分の人生を支配してくださる神への感謝が生まれる筈です。』

「人の思い、神の思い」

2017年5月14日

ディボーションガイドの「デイリーブレッド」から引用させて頂きます。『ギリシャの哲学者プラトンは、架空の話を使って、人の心の闇について考えました。それは、地下深くに隠されていた金の指輪を、偶然に見つけた羊飼いの話です。山の中腹にあった古代の墓が巨大地震によって開かれ、羊飼いが金の指輪を見つけます。そればかりか、その指輪をはめれば、透明人間になれることも分かりました。そこで、プラトンはこう問いかけます。絶対に見つからず、罰を受けることもないという状況で、悪いことをしてみたいという思いを抑えられるだろうか。ヨハネによる福音書を読むと、主イエスが、この問題を別の角度から取り上げておられることに気づきます。自分の行いが明るみに出るのを恐れて、闇にとどまろうとする人間の心について語っておられるのです(ヨハネによる福音書3章19~20節)。主イエスは私たちを咎めようと思っておられるのではありません。すべての人が、御子の十字架の贖いによって、救われることを願っておられるのです。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネによる福音書3章17節)。』

「日本で最初の信徒伝道者」

2017年5月7日

1551年の2月のことです。山口県で一人の宣教師が路傍伝道をしていました。その宣教師の名前はフランシスコ・ザビエル。その説教を熱心に聴いている一人の琵琶法師がいました。この人は片目は潰れ、もう一方の目も極めて視力が弱く、真に非力な人物のように見えました。この男がザビエルの説く主の愛に捕らえられ受洗しました。この男はロレンソと言う洗礼名を授かり日本における最初の信徒伝道者(イルマン)となりました。主は、ロレンソの持つ素晴らしい記憶力と類まれな語学力を用いられ、やがて彼は名説教者になり、多くの日本人にキリストの愛を伝えました。その働きはルイス・フロイスからも絶賛され、彼は時の最高権力者の織田信長にも気に入られ、度々信長に呼び出されてキリスト教について進講しています。ハンディキャップを持ったロレンソを、主は大きく用いてくださいました。同じように欠けだらけの私たちをも、主は受け入れてくださり用いてくださいます。ある人が言っています「提灯は破れていた方が良い、その破れから光が漏れ出るからだ」。そうであれば、私たちは破れを気にすることなく、ありのままの自分を主に差し出して、用いて頂きたいと思います。