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歴史の娘、犬養道子さん

「歴史の娘、犬養道子さん」

2017年7月30日

評論家の犬養道子さんが召されました。96歳でした。犬養さんは「歴史の娘」と呼ばれるほど、激動する歴史の中を生きられた方です。犬養さんが11歳の時の日記にはこう記されています。「5月14日土曜日、晴。ママと康ちゃんと一緒に銀座のコロンバンに行った。干葡萄の入ったお菓子を買った。明日の晩、皆でお祖父ちゃまにおいしい洋食を差し上げる予定だからです」。その翌日の日記はたった1行です。「5月15日。お祖父ちゃま御死去」。犬養毅首相が暗殺された1932年の「5・15事件」です。総理大臣の権力も、死に対しては何の力も持ち得ないことを、この時、犬養少女は知り、絶対不変のものを求めて、カトリック教会で洗礼を受けてクリスチャンになりました。70年代以降は飢餓、難民問題に精力的に取り組み、世界の難民キャンプや紛争地に単身で赴いて活動を続けました。飢えた子供を救済するための「スプーン一杯運動」、パキスタンなどに苗木を送る「みどり一本運動」を提唱するとともに、私財を投じて難民に奨学金を支給する犬養道子基金を設立しました。「これらの最も小さな者の一人にしたのは、私にしたのである」という主イエスの御言葉に生き貫いた生涯でした。

「夏目漱石と聖書」

2017年7月23日

鈴木範久先生が書かれた『聖書を読んだ30人』からの抜粋です。「夏目漱石の小説『三四郎』の最後の方で、三四郎が教会の前で美禰子を待っていると、礼拝を終えた美禰子が姿を現す。結婚の決まった彼女は三四郎に向かって聞き取れないような声で呟いた。「われは我が愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」。これは詩編51編3節の言葉だが、直接には聖書からではなく『日本聖公会祈禱書』から取ったのではなかろうか。漱石の用いた聖書で唯一、所在が判明しているのは英文聖書である。漱石が1900年秋、イギリス留学に向かう船上で、旧知のミセス・ノットから贈られた聖書である。その聖書に漱石が線を付したところを見ると、男と女、親と子、結婚にかかわる聖句が目立つ。漱石と聖書との関係は、男女、夫婦をめぐる問題、そこに集約される人間の罪の問題であったような気がしてならない。一見、キリスト教や聖書よりも禅にひかれた漱石であるが、この視点から改めて見直す必要があるかもしれない。」漱石が男女や夫婦の関係に集約される人間の罪の問題を、聖書から教えられたとするなら、もう一歩進んで、罪からの救いをも、聖書から学んで欲しかったと悔やまれます。

「五本指の祈り」

2017年7月16日

「デイリーブレッド」からの引用です。『祈りは神との対話であって形式ではありません。しかし、時には形式を利用して祈りを新鮮にすることも必要です。詩編や「主の祈り」などの聖書の御言葉を、そのまま祈るのは一案です。また、「賛美・告白・感謝・願い」という4ステップの祈りもあります。最近、他の人のために祈るときに使える「五本指の祈り」というのがあると教えられました。/手を組んだ時、自分に一番近いのは親指です。まずは、最も近くにいる人、愛する人のために祈りましょう/人差し指は「示す」指です。ですから、聖書を教える人、牧師、日曜学校の教師のために祈りましょう/一番長いのが中指です。権威を持つ人のために祈りましょう。国や自治体の指導者、職場の上司といった人々です/4番目の薬指はたいてい、最もか弱いものです。困っている人、苦しんでいる人のために祈りましょう/最後は、小さな小指です。神の偉大さに照らして、自分の存在がいかに小さいかを思い出し、神が自分の必要を満たしてくださるよう祈りましょう。どんな祈りの方法であっても、天の父と語り合いましょう。このお方は、あなたの心の声を聞きたいと願っておられます。』

「神の御手の中の鉛筆」

2017年7月9日

聖マザー・テレサは「私はただ神の御手の中にある鉛筆です」といつも言っていたそうです。人は自分の手で鉛筆を握って様々なストーリーを書きます。しかしマザー・テレサは、自分の手に鉛筆を握って名作を残そうとは考えませんでした。自分自身が神様の御手の中の鉛筆だというのです。つまり自分の一生を神にささげて、神の御手の中で握られれば、神様が驚くべき名作を生み出してくださるという信仰があったのです。使徒パウロは愛する弟子のテモテに、貴いことに用いられる器となり、主人(神様)に役立つ者となるように、と勧めています(第二テモテ2:21)。マザー・テレサは、自分が神様の御手によって用いられている器であるという認識をもって、とてつもなく大きな働きに挑戦しました。その人生はまさに、神様の手による名作であったと言えます。私たちはマザー・テレサのような働きはできませんが、私は神様の御手の中にある鉛筆だ、という信仰を持つなら、きっと神の御業が現れると思います。ご一緒に祈りませんか。「神様、どうぞ、あなたの鉛筆として、私を御手の中で握り締めてください。私の人生を通して、あなたの栄光を現すストーリーを書いてください。」

「傷口に触れる勇気」

2017年7月2日

「デイリーブレッド」からの引用です。短期医療宣教チームの一員として東アフリカの奥地に行くことになったカイリーは不安でした。初歩的な医療処置はできますが医者でも看護師でもなかったからです。彼女は任地で、ひどく足が変形している女性に会いました。ぞっとしましたが何もしない訳にはいきません。それで、きれいに洗い包帯を巻いてあげました。すると女性が泣き出したのです。カイリーは心配して「痛みましたか」と尋ねました。すると「いいえ。ただ誰かが私に触れてくれたのは9年ぶりでしたから」と言ったのです。主イエスの時代の重い皮膚病患者も同じように社会から疎外されていました。レビ記13:46には「その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」と書かれています。一人の重い皮膚病の人が主イエスの御許に来て言いました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(マタイ8:2)。すると主イエスは手を伸ばして彼に触り「よろしい。清くなれ」と言われたのです(3節)。お言葉だけでもくださいと願った人に、主イエスは触れてくださったのです。この主イエスの愛に倣う者とさせて頂きたいと思います。