「名前で呼ぶ」
2017年11月26日
「つい叩くのをためらってしまう蚊、一体どんな蚊?」ある番組の大喜利のコーナーで出された題です。たくさんの面白い答えの中に、次のようなものがありました。「4才の娘が名前を付けてしまった蚊。」なるほど、と思いました。部屋の中をブンブン飛び回る蚊に、小さい娘が指を指して「この子はブンちゃん」と名前を付けたとしますと、そう簡単に叩く訳にはいかなくなるかもしれません。この答に思わず笑ってしまうと同時に、名前の持つ不思議な力について考えさせられました。モーセが神様の名前を尋ねた時、神様は「私はあるという者だ」と答えられました。「私はある」。これが神様のお名前だと言われたのです。まことに深い意味を含んだ名前です。この神様のことを韓国の教会は「ハナニム」と呼びます。ハナニムとは「ただ一人のお方様」という意味です。この神様の名前が韓国にキリスト教が広がった理由の一つとも言われています。教会には多くの人がいます。また新しく来られる方もいます。その方々の名前と顔が一致しているでしょうか。まだの方がいるなら、早く名前を憶えて、お互いに名前で呼び合えるようになりましょう。名前で呼ばれるのは嬉しいものなのです。
「まことの愛に基づく批判」
2017年11月19日
ニューヨークの地下鉄の車内に一人の男性と数人の子どもが乗り込んできました。子どもたちは大声で叫んだり、物を投げたり、走り回ったりしました。それを見て電車に乗っている人は皆、いらいらしました。ある人が、たまりかねて父親に言いました。「もう少しおとなしくするようにお子さんたちを叱ってください。」その父親は申し訳なさそうに答えました。「何とかしなければと思っているのですが、どうしたら良いか分かりません。実は1時間ほど前に私の妻、あの子たちの母親が死んでしまいました。私もあの子たちもどうしたら良いか分からずにいるのです。」その人は父親を批判することを止めて、むしろ彼に同情し彼を慰めようとしました。私たちは他人の行動や言葉が気になって「正してあげなくては」という思いで批判します。聖書には「あらわな戒めは、隠された愛にまさる」(箴言27:5)という御言葉もあります。しかしその場合でも相手の人が置かれている状況を十分に理解し、愛に基づいて、また祈りをもって批判しなければならないと思わされています。切り捨てるのではなく助け上げるために、壊すためではなく建て上げるために語る者になりたいと願っています。
「言葉の力」
2017年11月12日
ある調査によると、一般の家庭において子どもは肯定的な言葉を一つかけられるのに対し、十の否定的な言葉をかけられるそうです。学校では一つのほめ言葉に対して、七つの否定的な言葉を聞くということです。また一つの否定的な言葉による精神的なダメージを打ち消すために、四つの肯定的な言葉が必要だそうです。使徒パウロは、悪い言葉を抑え、聞く人に恵みを与え、その人を造り上げるのに役立つ言葉を語るように勧めています(エフェソ4:29)。恵みを与える言葉とは、人を励まし、力づけ、慰める言葉だと思います。逆に悪い言葉とは人を傷つけ、気力を失わせるような言葉でしょう。主イエスは「人の口からは、心にあふれていることが出て来る」と言われました(マタイ12:34)。主イエスが言われたように、心が善いもので満たされるなら、善い言葉が語れるようになります。心に愛を宿している人は愛の言葉を語り、心の中で憎しみや恨みを抱いている人は破壊的な言葉を口にします。今日私たちの口から出た言葉の何パーセントが善い言葉で、何パーセントが破壊的な言葉だったでしょうか。それで私たちの心の状態が分かります。(W.ウッド著「100のミニメッセージ」より)
「聖書の章と節」
2017年11月5日
聖書には「章」「節」の数字がついています。これは世界共通となっていて便利です。この区切りの数字は最初から付いていたのではありません。「章」は13世紀の初めにラントンというカンタベリー大主教が付けたと言われています。「節」はフランスのステファヌスが1546年に出版したギリシア語新約聖書において初めて採用したと言われています。ステファヌスはパリからリヨンへ馬に乗って旅をする途中で、ギリシア語本文に「節」の区切りの数字を書き込んだと言われています。そのため馬上でペンがずれたのか、「節」の区分が内容的に不適切になされているところもあると言われています。例えば最も短い「節」はヨハネ福音書11章35節の「イエスは涙を流された」で、ギリシア語でわずか3語しかありません(英語では2語)。逆に最も長い節はそのすぐ近くのヨハネ福音書11章31節で、ギリシア語で32語もあり、あまりにバランスを失しています。ところで日本語聖書ではギリシア語と文法構造が異なるため、翻訳において「節」の数字を原文通りに順にたどることが難しい箇所もあります。そこで例えばローマ書2章19~20節の様に2節分をまとめて訳さざるを得ない場合も出てきています。