「空っぽの卵」
2018年4月29日
8歳になるフィリップというダウン症の子がいました。あるイースターの日、教会学校の先生が卵の形をしたプラスチックの入れ物を子供たちに配って、教会の庭で新しい命を象徴するものを見つけて、その入れ物に入れるようにと言いました。子供たちは庭で色々な物を探して卵に入れてきました。先生はその卵を一つずつ開けました。きれいな花、種や新緑の葉、蝶々などが出てきました。子供たちはその一つ一つに興味深い反応を示しました。先生がフィリップの卵を開けると、その中には何もありませんでした。クラスの皆がフィリップを批判して言いました。「何も入っていないじゃないか、ちゃんと宿題をやれよ。」するとフィリップが答えました。「僕、ちゃんと宿題をやったよ。空っぽの卵だよ。イエス様のお墓も空っぽだった。」他の子供たちはシーンと静まり返りました。その後間もなく、免疫力の弱かったフィリップは、ある感染症にかかってその短い生涯を閉じました。お葬式の時、子供たちはフィリップのお棺に花ではなく、あのプラスチックの卵を入れました。その卵には「大人になっても素直な心を失わないで」というフィリップの願いが込められていたのかも知れません。
「愛の定義、その3」
2018年4月22日
再び愛についての言葉を紹介します。「愛するとは、互いに目と目を見交わすということではなく、ともに同じ方向を見るということである。(A.サン=テグジュペリ)」。 「人を愛するということは、神がごらんになっているように、その人を見ることである。(ドストエフスキー)」。 「愛は空間を作る。相手が、自分自身で存在することができる場を。(グァルディーニ)」。 「まことの愛は、やけどを負わせずに温める。(フレミッシュのことわざ)」。 「愛している人は、神についていちばんよく知っている。神学者たちは、この人たちに耳を傾けねばならない。(フォン・バルタザル)」。「歩いて入りこめないところへも、愛は這い込んでいく。(イギリスのことわざ)」。「心よ、おまえは何をしようと待っているのか?愛することは、今すぐできる。(十字架のヨハネ)」。「約束を守らないのは 愛ではない/失敗を喜ぶのは 愛ではない/かげで悪口を言うのは 愛ではない/成功をねたむのは 愛ではない/施しをためらうのは 愛ではない/裏切られてうらむのは 愛ではない/自由をうばうのは 愛ではない/悔いるのを許さないのは 愛ではない(河野進)」
「ヤコブ書を読み始めました」
2018年4月15日
「賢者は真実を発見して喜び、凡人は間違いを発見して喜ぶ」、という言葉があるそうです。確かにそうだな、と思わされます。しかし、真実を発見して、素直に喜ぶことができる人は、実はそう多くはないのではないでしょうか。特にその真実が、自分にとって都合が悪い場合などは、それを発見しても喜ぶどころか、無視したり、否定したりしようとするのではないかと思います。水曜日の聖書講読・祈祷会では、時間をかけて読み進んできたマルコによる福音書の学びを終えて、先週からヤコブの手紙を読み始めています。ヤコブの手紙には、かなり厳しい戒めや勧めが集められ、まとめられています。これを読んで、ある人は「わが意を得たり」という思いで賛同するでしょうが、もう一方では、厳しい言葉に戸惑いを覚え、反発する人がいるかもしれません。ヤコブの手紙を読んだ、当時の教会はどのような思いで、この手紙を受け止めたのでしょうか。ヤコブの手紙に限らず、聖書の戒めを読む者に求められるのは、主の前にひざまずく謙虚さです。ある人が言っています。「真理は自分が多くの罪を犯したことを知っていて、それを認める罪人だけが受け入れることができるのです。」
「立ち止まるわけ」
2018年4月8日
カウンセラーの荻野ゆう子さんが、その著書の中で、不登校や引きこもりの若者たちの、生の声を引用しています。「立ち止まっているのは、そこに立ち止まらないといけないわけがあるんだよ。」不登校やひきこもりの若者が立ち止まっているのは、そこに立ち止まらないといけない訳があるのだと言っています。他の言葉も紹介します。「涙をいっぱいためると、気持ちが動かなくなっちゃうから、今日は泣かせてほしい。」 /「自分が涙を流す場所を持っていれば、誰かの涙の受け皿になれるよね。」/「人それぞれ、けっこう無理してそこにいることもある。でも、そんな自分に気づいてくれる人がいれば、そこが私の居場所。」本当に人を慰め、励ますのは、苦しみや悩みの外にいる人の言葉ではなく、その只中にいる人の言葉なのだと、改めて思わされました。今朝の御言葉は、マグダラのマリアが主の墓の外に立って泣いていた、と書いています。マリアもまた、悲しみの涙をいっぱいためて、気持ちが動かなくなって、立ち止まらざるを得なかったのです。けれども、そんなマリアに、主イエスは「マリアよ」と優しく呼び掛けて、振り向かせてくださり、新しい命を与えてくださったのです。
「イエスは生きている」
2018年4月1日
カトリックのG.ネラン司祭が主イエスの復活についてこう語っています。(抜粋)「私にとってキリストの復活は史実でなく、真実である。正確に言うなら、信仰の対象は、復活という出来事よりも、イエスが今も実在しているということである。キリストの復活というよりも、ルカが書き記しているように『イエスは生きている』と表現した方がいい。生きているイエスの姿は目に見えないが、その臨在は真実である。福音書記者もパウロも、イエスの復活を信じていた。彼らの信仰それ自体が、疑いのない史実である。そして、彼らは描写に絶する出来事のすべてを、各自の才能に応じて描出しようとした。私が信じるのは彼らの信仰宣言によるのである。復活を無視して、福音書の描き出すイエスのみを、亡き教師として尊敬している人々を、信者と見做すのは難しい。『わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる』というイエスの言葉を、私は信じる。こうしたイエスが、私たちと共におられるという状況の基礎は復活に他ならない。もしも私がイエスの臨在を信じなくなったら、直ちに無神論者になる。私にとって生きているキリストか、無か、という二者択一しかないのである。」