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トラクト配りの思い出

「トラクト配りの思い出」

2018年9月30日

11月から12月にかけてチラシが多く作られます。11月3日の「ヴァイオリンと鍵盤楽器のコンサート」、11日の子ども祝福の祈り、23日のバザー、そしてクリスマスのご案内。製作される方々が、心を込めて、また工夫を凝らして素晴らしいチラシやポスターを作ってくださいます。そして多くの方々が協力してチラシを配ってくださいます。私が神学生であった頃、夏期派遣先の教会でよくトラクト配りをしました。住宅街の教会だとトラクト配りは比較的容易です。大きなマンションを何棟か訪ねれば手にしたトラクトは直ぐになくなってしまいます。ですから見てくれそうな家を選んで入れました。古いチラシがたまっている家に入れませんでした。田舎でのトラクト配りは大変です。隣の家は遥か遠くの田んぼの向こうにぽつんと建っている。50枚配るのに一日掛かってしまうこともあります。郵便受けが奥にあるので入っていって、犬に噛まれそうになったこともありました。家の人に出会って「ご苦労様」と声をかけられたときは嬉しかったことを覚えています。一枚一枚「主よ、用いてください」という短い祈りを込めて配るチラシ。千枚のチラシで一人でも来てくだされば感謝です。

「神の鉛筆になる生き方」

2018年9月23日

先週の説教で、私たちが空の器に徹していくならば、主イエスの御業が私たちを通して顕れる、と語らせていただきました。マザー・テレサは「私はただ神の御手の中にある鉛筆です」と言っています。器が鉛筆に置き換えられていますが、言わんとすることは同じです。ある人は鉛筆を握って様々な物語を書きます。また鉛筆を使って素晴らしい絵を描く人もいます。しかしマザー・テレサは、自分の手に鉛筆を握って名作を残そうとは考えませんでした。自分自身が神の御手の中にある鉛筆だというのです。神の御手に握られれば、神ご自身が驚くべき名作を生み出してくださる、という信仰に生きていたのです。その信仰は使徒パウロの言葉と重なります。「だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。(Ⅱテモテ2:21)」マザー・テレサの人生は、まさに神の手による名作であったと言えます。私たちは、マザー・テレサには及びもつきませんが、「私は神様の御手の中にある鉛筆です」という信仰を持つなら、きっと私たちを通して、神の御業が顕れると信じます。

「高齢祝福の祈り」

2018年9月16日

先週の礼拝で高齢祝福の祈りを献げさせて頂きました。礼拝に出席されている80歳以上の信仰の先輩方に立って頂き、拍手をさせていただきました。そして、先輩方がとてもお元気で、今も教会を支えていてくださっていることを改めて思わされました。テトスへの手紙2章3~5節には、教会におけるご高齢の婦人に対する勧めが語られています。それを読みますと、初代教会においても、ご高齢のご婦人方が教会において重要な役割を果たしていたことが分かります。かつてインドで長年働かれたブラウン宣教師が、一時帰国した時に、こういう質問を受けました。「あなたがインドで、最も欲しいものは何ですか」。すると彼はこう答えたそうです。「それは、おばあさんです」。当時インドの教会には、年を取った婦人が少なかったそうです。ブラウン宣教師は、そこで初めて、ご高齢のご婦人たちの働きの尊さ、その存在の大切さを知らされたというのです。ご婦人だけではなくて、勿論男性も含めて、教会においてご高齢の方々の果たされる役割は、大変重要です。どうか先週祝福を受けられた先輩方が、いつまでもお元気で、教会を支えて頂きますように心からお祈りさせていただきます。

「変えられた人生」

2018年9月9日

ノエル・モリスという宣教師の話です。ある時、モリス先生はロシアのハバロフスク駅構内で二人の強盗に襲われました。顔を殴られバッグも取られてしまいました。しかし近くに警官がいたので、直ぐに一人の強盗を捕まえることができました。モリス先生は犯人にロシア語の新約聖書と小さな伝道パンフレットを渡しました。先生は裁判における証言で、自分を襲った男に対して「イエスの御名によってあなたを赦します」と言い、彼に対して寛大な判決を与えてくれるように訴えました。犯人には前科があったため4年の実刑判決が下されました。暫くしてその男から一通の手紙が、モリス先生のところに届きました。その手紙は「主イエス・キリストにある兄弟へ」という言葉で始まっていました。続いてこう書かれていました。「私は刑務所であなたから貰った聖書を読み、また、何人かのクリスチャンから福音を聞き、イエス・キリストを受け入れました。そしてイエス・キリストの貴い対価によって買い取られたことを知りました。主は私の人生を変えてくださいました。そして清め、私の行いと考え方を変えてくださったのです。私はもう、以前の生活に戻りたいと思わなくなりました。」

「忘れる」

2018年9月2日

先週は河野進牧師の「忘れる」という詩を紹介させて頂きました。同じ題で関根弘興牧師がこんなことを書いておられます。『私たちは忘れてはいけないものを直ぐに忘れ、忘れた方がいいものはいつまでも覚えているものです。忘れるという字は、心を亡くすと書きます。主イエスは「あなたの宝のあるところにあなたの心もある」と言われました。ですから「忘れられない」ということは、そこにあなたの「心」があるということなのですね。子どもの頃、色々なものを宝物にしていました。ビンの蓋とかシールとか、何でこれが宝物なんだろうと思うものばかりです。でも子どもにはそれが宝なのです。なぜならそこに心を置いているからです。しかし大人になれば、それらは忘れ去られてしまいます。なぜならそこに心が亡くなってしまっているからです。私たちは忘れたい過去を宝のようにしまいこんでいることがあります。多くの忘れたい記憶や痛みを持っています。頭で「忘れるぞ」と思っても、なかなか忘れられないものです。しかし心をそこから別のものに移すことができれば忘れることができます。過去の様々な痛みの記憶を、聖書の御言葉と置き換えてみてはいかがでしょうか。』