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時間を巻き戻したい

「時間を巻き戻したい」

2018年10月28日

ある父親が海難事故で息子を亡くしました。その父親は何度も考えたそうです。もしあの事故が起こる前まで時間を巻き戻すことが出来たら、何としても海に出掛ける息子を止めたことだろう。でも自分は未来に何が待っているのか分からなかった。だから笑顔で送り出してしまった。時間を巻き戻したい!そういう思いで苦しんでいた時、ハッと気付いたそうです。神様もまた、ご自分の独り子を亡くされたのだ。天地万物をお造りになった偉大な神様は、ただ天の高みから私たちを見下ろしているお方ではない。このお方もご自分の独り子を亡くされたのだ。しかも、独り子をこの世界に送り込んだら、どんなにひどい目に遭うのか、分かっていたにもかかわらず送り出すのを止めなかった。私は自分の息子がこれからあの場所に行けばひどい目に遭うということが分かったら絶対に止める。でも神様は独り子が十字架にかけられて殺されることが分かっていても送り出してくださった。なぜか。それ以外に私たちが罪の滅びから逃れる方法はないからだ。それほどまでに私たちを愛してくださったのだ。この愛を知った時、その父親は、「時間を戻したい」という後悔の念から漸く解放されたのです。

「最高の訪問者」

2018年10月21日

ある教会に、毎日昼の12時になるとジムという名の老紳士がやって来て、ほんの数分間会堂に座っては、出て行くことを繰り返していました。不審に思った会堂の管理人が、何のために来るのか尋ねました。ジムは「祈るために来ています」と答えました。「祈るためにしては短か過ぎませんか」と尋ねる管理人に、ジムは「私には十分なのです。毎日私は『イエス様、ジムでございます』と言って暫くお話しするのです。それからすぐ帰るのですよ」と答えました。暫くしてジムは交通事故に遭って入院しました。その病院には怒りっぽい患者が多くて不平不満が絶えませんでした。ところがジムが入院してから病院の雰囲気が一変しました。不平不満がなくなり笑い声が聞こえるようになったのです。ジムが痛みや不自由さの中でも決して文句を言わず、いつも嬉しそうにしているのを見て他の患者たちが変えられたのです。看護士がジムにその平安の理由を尋ねると、ジムは答えました。「それは私の訪問者のお陰だよ。毎日12時になるとその方はここに来てこう言われるのです。『ジム、イエスだよ』ってね」。まことの平安は、共にいてくださる主イエスとの交わりによって与えられるのです。

「リンゴの木を植えた人」

2018年10月14日

アメリカ開拓史上の伝説的人物にジョン・チャップマンという人がいます。ジョンはリンゴの種をいっぱいに積んでアメリカ中西部を巡り歩きました。旅の目的は未開拓地の人達にリンゴの木を贈ることでした。ジョンは裸足で歩き、コーヒー豆の麻袋をコートにして、帽子代わりに壊れた鉄の鍋をかぶっていたと言われています。質素で親しみやすい人柄とその善い行いから多くの人々に慕われ、いつしか「ジョニー・アップルシード」と呼ばれるようになりました。彼は大量のリンゴの種を蒔きました。しかし移動しながらでしたので、種が成長して実がなることを見ることはありませんでした。しかし何年か後に移住してきた人々は、豊かに実ったリンゴの実を食べることができたのです。福音の種も同じです。先人が蒔いた御言葉の種がやがて実り、後の人たちが感謝と共にそれを頂いている。それが教会なのです。ですから私たちも次の世代に向けて、自分は花も実も味わえなくても御言葉の種を蒔き続けるのです。新会堂も私たちが使わせて頂ける期間はそれ程長くはないかもしれません。しかし次の世代、更に次の世代の方々が豊かに使ってくださることを願って建築を進めていくのです。

「受け入れることの大切さ」

2018年10月7日

「主よ、私たちに、変えることのできないものを受けいれる冷静さを与えたまえ。変えることのできるものを、変える勇気を与えたまえ。そして両者を識別する知恵を与えたまえ」。これは有名なラインホルト・ニーバーの祈りです。この祈りを日本に紹介した大木英夫先生は原文の順序を逆にして「変えることのできるものを変える勇気を与えたまえ」という言葉を先に置いて翻訳しました。その理由として、日本人は諦めるのが得意だから挑戦する勇気を初めに持ってきた、と言われたそうです。なるほどなぁ、と思います。しかし、開いた心で受け入れることは、挑戦すること以上に難しく、また大切なのではないか、とも思わされます。藤木正三牧師はこう言っています。「開いた心は神を受け入れて信仰となり、隣人を受け入れて愛となり、自分を受け入れて望となるのです」。信仰・希望・愛は、いずれも受け入れることによるのだというのです。愛することは難しいと言われています。しかしそれ以上に難しいのは、愛されていることに気づき、その愛を受け入れることではないでしょうか。まず神様の愛を受け入れることがなければ、その愛を隣人に分け与えることはできないのですから。