「主に受け入れられる人」
2019年1月27日
あるクリスチャンが夢を見ました。『私は、どこかの見知らぬ教会の礼拝に、その教会の教会員として出席していた。礼拝の中で新来会者が紹介された。紹介されたのは、外国から帰って来たばかりの男性であった。その男性は前に出て、「自分はクリスチャンになってから、こんな前向きで、積極的な生き方をしている。外国の教会で訓練を受け、こんな伝道ができるようになり、日本でも会社を起こし…」と、自分の有能ぶりを語った。見知らぬ牧師が、「こんな方が私たちの教会に加わってくださって感謝です」と言って、この男性を拍手して迎え入れた。聞けば、この男性は42歳で、私と同世代である。私は、自分のしていることがひどく幼稚に思えた。自分は一体何をしているのかと劣等感に陥った。私は夢の中で神に叫んだ。「私にも、あの人のような才能をください」。すると主の声がした。「あなたは彼より自分が劣ると思うのか」。私は答えた、「はい、劣っています」。「ならば、あなたはあの人以上に、私を必要としているのではないか」。それを聞いて、私は夢の中で泣いた。』神が受け入れてくださるのは、自分の立派さを語る者ではなく、自分の無力さを告白する人なのです。
「あなたはキリストを知っていますか」
2019年1月20日
アメリカの経済、金融政策の要として活躍し、駐西ドイツ大使も務めたアーサー・バーンズはユダヤ系アメリカ人でした。ですから、彼がホワイトハウスでの非公式な祈り会に参加し始めた時、誰も彼にどう接すればいいのか分からず、毎週順番にしていたまとめの祈りも、バーンズだけは特別に外していました。そんなある日、このことを知らない新しい人が祈り会を導くことになりました。祈り会が終わりに近づいた頃、彼はバーンズにまとめの祈りを頼みました。前から出席していた何人かはびっくりして、一体何が起こるかと思いました。しかしバーンズは手を出して輪を作って立っている人々の手を取り、こう祈りました。「主よ、ユダヤ人たちがイエス・キリストを知ることができるよう祈ります。最後に主よ、クリスチャンたちがイエス・キリストを知ることができるように祈ります。ア-メン」アーサー・バーンズの祈りは、ワシントンの伝説的な祈りとなりました。彼は新鮮で率直な祈りによって参加者を驚かせたばかりでなく、クリスチャンとキリスト教に対して、重要かつ必要な指摘を行ったのです。それは「あなたは本当にイエス・キリストを知っていますか」という指摘でした。
「王の養子になった農夫」
2019年1月13日
世継ぎに恵まれないある王が、ふれがきを出しました。王家の一員となりたい若者は申込書を持って宮殿に集まれ、と。必要な資格は二つ、神への愛と隣人への愛でした。一人の若い貧しい農夫も申込書を出したいと思いましたが、ぼろ服を着たわが身を見れば身の程知らずのようです。しかし、彼は一生懸命に働いて稼ぎ、新しい服を手に入れ、その服をまとって、さて王家に入れるものかどうか、運だめしに出かけました。宮殿までの道のりも半ばにさしかかった頃、若者は道端で寒さに震えているあわれな物乞いに出会いました。気の毒に思った若者は、服を取り替えてやりました。またぼろ服に戻ってしまったからには、宮殿に行っても仕方がないという気はしましたが、村からはるばる出むいて来たのだから…とにかく予定通り旅を続けようと、若者は考えました。こうして、彼は官殿にたどり着き、ご家来衆にあざけり笑われたものの、王に目通りすることができました。ところが、驚いたことには、王をみれば、彼が道で出会ったあの物乞いではありませんか。しかも、若者が与えた服を着ているのです。王は玉座から降り、若い農夫を抱いて言いました。「よく来てくれた。わが息子よ。」
「イエス様なら?」
2019年1月6日
ある牧師が説教の準備をしていました。それは主イエスの生涯を辿りながら、私たちもその道を歩もうという内容のものでした。説教準備に集中していた時、突然みすぼらしい姿をした人がやって来ました。仕事を失って生活に困窮していた人でした。「牧師先生、助けてください」と頼みましたが、その牧師は「説教の準備で忙しい時に、なぜ邪魔するのか」と思って、その人を門前払いにしました。次の日、牧師は用意した原稿で立派に説教しました。その時、また例の失業者が教会に現れて、自分の苦しみを訴えながら礼拝堂の入り口で倒れてしまいました。そして、何と彼はその数日後、息を引き取ってしまいました。その牧師は強い衝撃を受けました。説教を準備し続けるのが良かったのか、それとも説教準備は放っておいて、彼を助けた方が正しかったのか。彼は胸を痛め、「もしもイエス様だったらどうなさっただろうか」と真剣に考えました。それ以来、すべての状況の中で「もしもイエス様ならどうなさるだろうか」ということを、念頭に置いて生きるようになりました。新しく与えられた2019年、私たちも「イエス様ならどうなさるか」と、自らに問いつつ歩んでいきたいと思います。