MENU

最も簡潔な信仰告白

「最も簡潔な信仰告白」

2019年3月31日

先週の御言葉、使徒言行録18章5節に、パウロが「メシアはイエスである」と証ししたとありました。今、祈祷会で読んでいるルカによる福音書9章20節では、「あなたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いに対して、ペトロが「神からのメシアです」と答えています。パウロもペトロも「イエスはメシアである」と証ししています。新共同訳聖書では「メシア」と訳されていますが、ギリシア語の原文では「キリスト」と書かれています。メシアもキリストも、もともとは「油注がれた者」という意味で救い主のことを指しています。パウロもペトロも「イエスこそキリスト、救い主です」と言ったのです。イエス・キリストと言う時の「キリスト」は、名前ではなくて「救い主」を意味する称号なのです。ですからイエス・キリストという言葉は最も簡潔な信仰告白の言葉なのです。普段私たちは、それほど深く考えずに言っていますが、イエス・キリストと言うたびに、私たちは主イエスに向かって「あなたこそ私の救い主です」と告白しているのです。イエス・キリストと言うたびに、イエスを救い主と信じる信仰を言い表し、そこでキリストを礼拝する思いに導かれているのです。

「新しい聖書ー訳語の変更(その4)」

2019年3月23日

新しい聖書で解釈が大きく変わったのはコヘレトの言葉です。これまで著者のコヘレトは、死ですべてが終わるこの世をはかなむ厭世主義者と見做されてきました。また全体が格言の羅列でしかないと考えられてきました。しかし現在では、コヘレトの言葉は一貫した思想によって統一されている書として解釈されるようになりました。死があるからすべて空しいのではなくて、むしろ死という終わりがあるからこそ、今を掛け替えのない時として積極的に生きることを勧めている書であると解釈されるようになりました。例えば新共同訳では11章1~10節は「分かったものではない(2節)」、「分かるわけはない(5節)」、「分からないのだから(6節)」という懐疑的な表現で訳されています。しかし新しい聖書では「知らないからである(2節)」、「知りえない(5節)」、「知らないからである(6節)」と訳していて、否定的な結論ではなく、むしろ理由や根拠を示しています。興味深いのは9章9節です。「愛する妻と共に楽しく生きるがよい」という言葉は、「愛する妻と共に人生を見つめよ」と訳されています。原語には「楽しむ」と言う意味はなく「見る」という言葉だからです。

「新しい聖書―訳語の変更(その3)」

2019年3月17日

新しい聖書の翻訳作業で重要な議題となった言葉があります。それはローマの信徒への手紙3章22節などにある言葉で、新共同訳では「キリストを信じることにより」と訳されている「ピスティス・クリストウ」という言葉をどのように訳すかでした。この言葉は「キリストへの信仰」とも「キリストの真実」とも訳すことが可能なのです。そこで新しい聖書では、基本は「キリストへの信仰」としながらも、限定した部分に限って「キリストの真実」と訳しています。限定した部分とは、先程のローマ3:22の他に、ローマ3:25、26、ガラテヤ2:16~20、3:22~26、エフェソ3:12、フィリピ3:9などです。ローマ3:22は新しい聖書では「神の義は、イエス・キリストの真実を通して、信じる者すべてに現わされたのです」となっています。また、ローマ10:11の「主を信じる者は、だれも失望することがない」という言葉は、「主を信じる者は、恥を受けることがない」と訳されています。原文のギリシア語本来の意味と、旧約聖書からの引用であることを考えての変更です。以上はほんの一例ですが、翻訳を担当された先生方は一つ一つの言葉に真剣に向き合い、聖霊の導きを求めつつ作業を進められたのです。

「新しい聖書ー訳語の変更(その2)」

2019年3月10日

新しい聖書における訳語の変更は沢山ありますが、特筆すべき箇所のみをいくつかご紹介します。ヨハネによる福音書の最後の21章で、主イエスはペトロに「私を愛しているか」と三度尋ねられています。しかし初めの二回は神様の愛アガペーの動詞形のアガパオー、三回目は人間の友情などのフィリアの動詞形のフィレオーと、言葉が違っています。従来はその違いを表していませんでした。新しい聖書では三回目のフィレオーを「慕う」と訳して違いを表しています。「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、私を慕っているか。』」17節はこのように訳されています。次にヨハネによる福音書13章12節、「さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席について言われた」。ここにある「席に着く」という言葉の原語は「横たわる」という意味です。当時の食事は横臥して取ったからです。「席」と訳すとテーブルの椅子に着くようなイメージになるので、新しい聖書では当時の文化を伝えるために「横たわる」という意味を残しています。「こうしてイエスは弟子たちの足を洗うと、上着を着て、再び横になって言われた。」新しい聖書ではこう訳されています。

「新しい聖書ー訳語の変更」

2019年3月3日

新しい聖書では、いくつかの重要な訳語の変更があります。先ず神様の名前ですが、新共同訳では「わたしはある」という名だと訳されていますが、新しい聖書では「私はいる」と訳されています。神は祖先と結んだ契約に従ってイスラエルの民と共にいて、エジプトから導き出すお方であるという文脈から「私はいる」と訳されています。口語訳聖書で「らい病」と訳されていた言葉は、新共同訳では「重い皮膚病」となっていました。その言葉は新しい聖書では「規定の病」と訳されています。律法で規定された病という意味です。創世記1章27節、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」この御言葉は「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。」と訳されています。旧約聖書にある「嗣業」という難解な言葉は「相続地」となっています。詩編23編1節の「主は羊飼い」は、以前の「主は私の羊飼い」に戻っています。新しい聖書はこうなっています。「主は私の羊飼い/私は乏しいことがない。主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる。」やはりこの訳の方が私には親しみがあります。