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祈られている幸い

「祈られている幸い」

2019年6月30日

S牧師の母上が危篤になりました。その時、S牧師の3歳と4歳の子が祈りました。それはまことに純粋な祈りでした。S牧師は「この祈りは聞かれる」と確信しました。しかし、母上は召されました。その次の聖日の説教箇所は、祈りについての御言葉でした。「主よ、私たちは祈っていなかったのですか」。叫ぶような思いに捕らわれつつ説教を準備しました。S牧師はこう言っています。「いつも祈りが聞かれるなら楽だが、聞かれないことがある。これは、信仰を持つが故の戦いである。信仰を持っていなければ、こんな戦いをしなくても良い。それでも、信仰に留まっている。教会につながっている。それは、祈られている自分がいるからである。私たちは祈られている。家族の祈り、信仰の友の祈り、同労者の祈り。それにもまして、主イエスの祈りがある。「シモン、シモン…わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。(ルカによる福音書22:32)」これにまさるものはない。この執り成しの祈りによって、私の信仰は支えられている。」私たちが信仰を失わないのは、私たちが強いからではありません。主イエスが祈ってくださっているからなのです。主に感謝します。

「体験を通して知る御言葉の恵み」

2019年6月23日

先週の「聖書を学ぶ会」で詩編119編71節の御言葉を黙想しました。「苦しみに遭ったのは私には良いことでした。あなたの掟を学ぶためでした。(聖書協会共同訳)」内村鑑三は「聖書に関する最も良い注解書は体験である」と言っています。確かに「神は愛である」という御言葉の意味を、いくら注解書で学んでも神の愛を体験しない限り、その意味は分かりません。詩編119編71節の御言葉を「体験した」人の一人にジョセフ・スクライブンという人がいます。彼は1819年にアイルランドで生まれ、25歳の時結婚式前日に婚約者を水難事故で失うという悲劇を体験します。新天地を求めカナダへの移住し、学校の教師となったスクライヴェンに新たな幸せが訪れました。エリザという女性に巡り合い婚約したのです。しかし結婚を直前にしてエリザは結核にかかり病死してしまいます。二度までも愛する婚約者を失うという悲劇を体験し、失意のどん底にあった彼は、そこで共にいて慰めてくださる主イエスの愛を体験し讃美歌を作りました。それが世界中で愛されている「いつくしみ深き 友なるイエスは」です。彼は牧師となって、悲しむ人々と共に生き、キリストの愛を述べ伝えて生涯を全うしました。

「建築現場の足場」

2019年6月16日

先週の聖日礼拝後、新会堂建築の起工式が行われました。いよいよ建築が始まります。先ず土台が据えられ足場が組まれます。足場について中国奥地伝道に生涯をささげたハドソン・テイラーの言葉があります。「私たち宣教師は家を建てるために必要な足場です。建築が進めば足場は消え去っていくものです」。ハドソン・テイラーの言うように、足場は消え去っていきます。いえ、消え去らねばいけないのです。建築が終了し会堂を主にお献げした後は、足場の存在すらも忘れ去られなければなりません。私たちの奉仕も同じです。私たちは新会堂建築のために出来る限りの奉仕をします。しかし私たちの奉仕は、主の恵みに比べれば取るに足らないものです。その奉仕をいつまでも覚えていてはいけないのです。いつまでもその思いを握り締めていてはいけないのです。建築が進んで行く中で足場の存在は忘れ去られていき、ただ主の恵みと栄光のみが輝かなければならないのです。ハドソン・テイラーはこうも言っています。「イエスを高く、高く、高く掲げよう。御言葉に深く、深く、深く根を下ろそう。」御言葉に堅く立った会堂を建て上げるために、ただ主にのみ栄光を帰していきましょう。

「しつこい祈り」

2019年6月9日

5日の祈祷会で、しつように祈ることを教えられました。それに関連する小噺から:息子は不熱心だったが、老母は熱心な信者であった。ただ文字が読めず祈りの本でお祈りすることが出来なかった。「ちっとも構いませんよ、おばあちゃん。イエス様、マリア様、ヨセフ様と言うだけでも結構ですよ」と神父さんが言ってくれたので、それを守って「イエス様、マリア様、ヨセフ様」と祈り続けていた。大切な願いをする時には一晩中繰り返していた。息子はうるさがったが老母は構わず祈っていた。そこで息子は用事があるような振りをして「お母さん、お母さん」としつこく呼んだ。母親は、始めは返事もしなかったが、あまりうるさいので「お黙り!今お祈りしているところじゃないか。いったいなんだってしつこく私を呼ぶんだね」と言った。息子はここぞとばかり力を入れて言った。「ぼくが2、3回呼んだだけでうるさがったじゃないか。神様だってあんまりしつこく呼ばれたら、きっとうるさがるよ。いい加減にしなきゃ。」老母も負けてはいなかった。「そうだろうね。でも私だってお前がしつこいから祈りをやめてお前のことを聞いたよ。」(参考聖句:ルカによる福音書11:5~13)

「起工式について」

2019年6月2日

次週の礼拝後、新会堂建築のための起工式が行われ、建築がいよいよ始まります。皆様の献身的なご努力とお祈りで起工式の日を迎えることができますことを心から感謝致します。起工式は日本でよく行われる地鎮祭とは違います。地鎮祭とはその名の通り地の神を鎮める祭りです。地面を掘ったり地面の上に建物を建てたりすることで、神が怒ることのないように神々を鎮めるための祭りです。定礎式というものもあります。隅の親石となる礎石を据える儀式です。この石を基準に壁が積み上っていきますから、この石が非常に大事なわけです。教会の建築では定礎式の時に聖書を箱に入れて埋める場合もありますが、私たちは地中に聖書を埋めるということはしません。聖書は埋めるべきものではなく読まれるべきものだからです。また大地は神の足台ですから、その上に教会の基礎を据えればそれで十分だからです。私たちの起工式は地鎮祭でも定礎式でもなく、神様をほめたたえ、感謝し、これからの工事の安全を祈る時です。讃美歌、聖書朗読、祈祷、短い奨励、鍬入れ、祝祷というシンプルなものです。起工式の中心点は神様に対する感謝と賛美と祈りです。皆で神様の恵みを誉め称えましょう。