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「やってみよう」と「どうせだめさ」のはざまで

「「やってみよう」と「どうせだめさ」のはざまで」

2020年9月27日

礼拝で時間をかけて「山上の説教」を学んでいます。山上の説教には、実行困難と思われる勧めが次々に出て来ます。「敵を愛せよ」、「思い悩むな」、「人を裁くな」等々。こういう言葉に出会うと、とても私には無理だ、という思いに覆われます。しかし自由学園の創立者で「友の会」を始めた人でもある羽仁もと子さんは、こう言っています。『私どもの心の中は絶えず二つの動力が凌ぎ合い、綱引きをしています。一つの動力は「やってみよう」、もう一つの動力は「どうせ駄目さ」。「やってみよう」という思いが心の中から生まれて来ると、すぐ後に「どうせ駄目さ」という思いが追いかけて来て、どんどん大きくなり「やってみよう」という思いを呑み込んでしまう。私どもの毎日の生活を支配しているものは、「やってみたって、どうせ駄目さ」という諦めです。…しかしどんな時でも、「よし、やってみよう」と言って立ち上がるのが、神に作られた人間としての本当の姿なのです。』私たちが「どうせ駄目さ」という思いに捕らわれた時は、自分は今、本当に全能の神様の御前に立っているか、と反省したいと思います。そして主の助けを信じて小さな一歩を踏み出したいと思います。

「幸福と祝福の違い」

2020年9月20日

神学生時代にお世話になった西川口教会の月報に金田佐久子牧師が心に留まる文章を書いておられます。以下は抜粋です。「ニューヨーク・コロンビア大学の盲目の女性教授シーナ・アイエンガー氏が授業でこんな質問をしました。『一流ホテルの、ルーフバルコニーにはプールもあるような超豪華な部屋に住んで、どんな料理でも注文できる。享楽の限りを尽くせる生活だが、一生この部屋から出られないという条件がある。こんな生活をしたい人はいますか』。教授には見えませんが、誰一人手を挙げる気配がないようです。一見幸福そうに見えますが、実際は不幸だと全員が気づいたのでしょう。このように一点の曇りもないような幸福も、一皮むけば不幸なのです。幸福も不幸も背中合わせ。不自由の中にも幸福はあり、一見何不自由なく暮らしているように見える人も、心の中では不幸を嘆いているかもしれません。幸福は状況に左右されます。しかし、聖書が語る祝福は次元が違います。私という存在そのものが神様の祝福の中に置かれるのです。神様が宣言されたら、そこに祝福があり、その祝福は揺るがないのです。主イエスは常に生きておられるので、この祝福は永遠の祝福なのです。」

「歳を取って知らされること」

2020年9月13日

洋画家の中川一政氏がこのような言葉を遺しています。「若い時の勉強は、何でも取り入れ貯めることである。老年の仕事は、いらないものを捨てていくことである。捨て去り、捨て去りして、純粋になってゆくことである」。クリスチャン作家の高見澤潤子さんは、この言葉を読んで、こんな感想を書いています。「私は年を取ってからも多くのものを知らされ、与えられ、教えられるものだと思っていたが、この言葉を知って、なるほどと思った。確かに、若い時の勉強は何でも詰め込むことだが、老人の勉強は不要の物を捨てていくことなのだ、と教えられた。私も、歳を取って捨てたものはたくさんある。無理をする、食べ過ぎる、怒る、憎む、欲張る、くよくよする、愚痴を言う、出しゃばる、自慢することなど、みんな捨てたつもりである。それでも歳を取らなければ分からないこと、歳を取って初めて分かってくることも多いことは確かな事実だと思う」。今日は、礼拝において高齢者祝福の祈りをささげます。教会は高齢者を敬います。では高齢者はなぜ尊いのでしょうか。それは、不要なものを捨てて行った先に、本当に大切なものが残ることを、知っておられるからではないでしょうか。

「一致とは補完し合うこと」

2020年9月6日

5年前に召された藤木正三牧師の断想集の言葉です。「話し合ってゆくうちに相違している立場が一致点を見出すかに思える場合があります。しかし厳密に問うてゆくと、やはり相違点は残っています。もし一致が同一を意味するなら、完全な一致というものは恐らく存在しないでしょう。そのような存在し得ない一致を求めるから、時には自説の押し付けをし、時には虚構の一致に妥協するのです。一致とは、相違しているものが同一になることではなくて、それらが補完し合うことなのです。…人は、一つの目標や思想や信仰を目指すことにおいて、一つにはなれません。それは政治や宗教運動の歴史を見ても明らかです。…人は、共通の事実を内に自覚するまでは、一つにはなれないものではないでしょうか。そして、恐らく罪をおいてほかに、その共通の事実に出会い得ないでありましょう。」藤木先生の言葉にアーメンです。私たちが本当に一つになれるのは、私たちは皆、神様の前に、等しく罪人であり、主イエスの十字架によって、初めて罪赦された者である、という共通の事実を自覚した時だと思います。その自覚に立った時、初めて相違点を認めつつ、補完し合う一致が実現するのです。