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クロノスとカイロス

「クロノスとカイロス」

2020年11月29日

先日はこのコラムで、バイデン次期アメリカ大統領がコヘレトの言葉3章の御言葉を引用して「今はアメリカが分断の痛みを癒す時である」と演説したことを取り上げました。先週私は、教会懇談会にて牧師辞任の申し出をさせていただきました。「すべてのことには時がある」というコヘレトの言葉に従えば「牧師を辞めるのに時がある」と示されたと言えます。新約聖書が書かれたギリシア語では「時」を表す言葉が二つあります。一つはクロノスという時で、これは過去から現在、未来へと流れていく機械的な時です。いわば横の線の上を時計の針に従って延々と流れていく連続した時です。これに対してカイロスという時があります。これは、クロノスという横の線に、縦に介入してくる決定的な瞬間、つまり「その時」という時です。コヘレトが言っている時とはこのカイロスです。私は58歳の時に「あなたのその力を持って行け」という士師記6章14節の御言葉に背中を押されて神学校に進みました。その時が献身のカイロスでした。そして今、体力の衰えと健康上の欠けを示され、辞任の時(カイロス)を示されました。どうか事情をご理解くださり教会の将来を共に考えて頂ければ感謝です。

「大いなる「しかし」」

2020年11月22日

榎本保郎牧師はこう言っています。「現実と神の言葉との間にはずれがある。だから私たちは、それら二つを『しかし』という言葉で埋める。その『しかし』には二つある。一つは、神が私を愛すると言われる。しかし、こんな暗い現実の中にあって、どうしてそれが信じられようかという『しかし』である。もう一つの『しかし』は大いなる『しかし』と呼ばれるもので、自分の現実は暗く悲しい、しかし神の言葉だから信じようという『しかし』である。人間の側に立って神の言葉を裁く『しかし』と、神の側に立って人間の現実を超えていく『しかし』である。そして、そのどちらの『しかし』に立つかが、私たちの信仰態度を決定するのであるが、聖書はいつも大いなる『しかし』に立って語っている」。聖書の『大いなるしかし』の中で最もよく知られているのはローマの信徒への手紙3章21節だと思います。新共同訳では「ところが今や」と訳されていますが原語では「しかし今や」となっています。律法によれば誰も義とされない。しかし今や、主イエスの十字架の贖いによって、誰もが無償で義とされると語っている箇所です。この『しかし』の故に私たちは救われているのです。感謝!

「癒すに時がある」

2020年11月15日

ジョー・バイデンアメリカ次期大統領は、当選確実になった後の初めての演説で、分断されたアメリを再統合する必要性を力説し多くの共感を呼びました。南北戦争以来最大と言われたアメリカ社会の分断。それをどのように修復し一つとするか。バイデン次期大統領に課せられた大きな課題です。バイデン次期大統領は「もはやブルー・ステート(民主党を支持する州)も、レッド・ステート(共和党を支持する州)もない。あるのはユナイテッド・ステート(合衆国)だけであるべきだ」と強調して喝采を浴びました。同様の言葉は、かつてオバマ大統領も演説の中で語っていた言葉でした。更に、バイデン次期大統領は演説の中で、旧約聖書コヘレトの言葉3章1~3節を引用しました。『何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時/殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時』。この御言葉の中の『癒す時がある』という言葉を特に取り上げて「今は、分断の痛みを癒す時である」と語りました。教会も時として、意見の相違から分断の痛みを経験することがあります。しかし主は、必ず癒す時を与えてくださいます。

「生涯の師」

2020年11月8日

今朝は茅ヶ崎教会の前牧師櫻井重宣牧師をお迎えして創立記念礼拝を守っています。私が初めて櫻井先生にお会いしたのは今から15年前のことです。当時私は東京聖書学校の神学生でしたが、その神学校に当時広島教会の牧師をされていた櫻井先生が、Y姉という教会の信徒を連れて来られたのです。Y姉が献身の決意を固められ、どの神学校に進むべきか迷っておられた時、櫻井先生がY姉に付き添われて関東地区のいくつかの神学校を同行視察されたのです。わざわざ広島から一日がかりで信徒の神学校選びに付き添われる牧師がいる、ということを知って激しく感動したことを覚えています。Y姉(現、松永教会牧師吉武真理師)にとって櫻井先生は生涯の師とも言える存在であると思います。吉武師の神学校卒業論文は櫻井先生の牧会がテーマでした。ある人が言っています。「生涯の師とは、会うたびに必ず自分にとっての気づきやヒント或いはやる気をもらえるような人です。自分がこの人のようになりたいと思える人である」。こういう人はなかなかいません。しかし私たちにはイエス・キリストというお方が与えられています。このお方を生涯の師とさせて頂ける幸いを感謝したいと思います。

「人と較べる虚しさ」

2020年11月1日

「ナルニア国物語」の著者C.S.ルイスがこんなことを言っています。「悪魔はあなたのうちに自尊心という独裁者の支配を確立することさえできれば満足なのです。つまり人間のうちに自尊心という癌を植え付けられるなら、他の病気が治っても悪魔は意に介しません。傲慢は言うなれば霊的な癌です。それは愛や満足や良識の可能性さえ蝕んでしまいます。高慢な者は何かを所有しただけでは喜びません。人より多く持って初めて喜ぶのです。人は金持ちであることや、頭が良いことや、見目麗しいことなどを誇るのだと私たちは言いますが、実際にはそうではありません。他人よりもお金をより多く所有し、より賢く、より外見が良いときに誇りを感じるのです。人が皆同様に裕福で、頭が良くて美しいならば、誇るものは何もなくなります。人を高慢にするのは比較なのです。即ち、自分は他よりも優れているという優越感なのです。我々は傲慢である間は、決して神を知ることができません。傲慢な人はいつも事物や人々を見下しています。見下している限り、自分の上にあるものが目に入らないのは当たり前なのです。」主の恵みに徹底的に砕かれて、傲慢な思いを消し去って頂きたいものですね。