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未来を見つめよう

「未来を見つめよう」

2021年3月28日

先週に続いて未来の話です。「前」という言葉があります。進んでいく方向を「前」と呼び、過ぎ去った処を「後ろ」と呼びます。「前」は希望、積極性を感じさせますが、「後ろ」には暗く消極的なイメージがつきまといます。しかし私たちは「十年前」というように過ぎ去った過去にも「前」という言葉を使います。進んでいく方向が「前」なのに、過去を「前」と言っているのです。なぜでしょうか。私たちは、時間と空間の中に生きていますが、空間では進んでいく方向が「前」ですが、時間では過ぎ去った過去しか見えないので、過去が「前」となるのです。私たちは時間を後ろ向きに見ながら進んでいるのです。ですから私たちは、現在の問題を過去の失敗や出来事に結びつけたり、過去に縛られたりするのです。しかし主イエスは、私たちの目を未来に向けさせます。未来に用意されている神様の数々の御業を信じて、期待して歩むように勧めておられます。来年度の主題聖句としてイザヤ書43章19節を示されています。未来に目を向けて、主がこれからなされようとしておられる新しいことを見つめるように導かれています。「前」に向かって全身を伸ばしていきたいと思わされています。

「希望の未来を信じて生きよう」

2021年3月21日

私たちは過去しか見ることができませんから、今の問題を過去の延長線上で捉えてしまいがちです。ある時、主イエスの弟子たちが質問しました。「この人が、生まれつき目が見えないのは、この人が罪を犯したからですか、それとも両親の罪の結果ですか」。主イエスが答えられました。「この人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。神の業がこの人に現わされるためである。」現在の苦しみを過去の結果として、否定的に捉えるのではなく、これから行われる神の業の中で積極的に位置づけられたのです。ここで神の業と訳されている言葉は複数形です。ですから、数々の神の業、という意味です。これから、数々の神の御業がこの人に現わされていくのだと言われたのです。今、私たちは、コロナ禍の中で苦しんでいます。しかし、主イエスは言われています。あなた方の中に、数々の神の御業を行われるお方がおられる。現在の試練は、過去の延長線上にあるのではなくて、未来を握っておられる神から来ているのだと。この約束を信じて、希望をもって、未来に向かって歩んでまいりましょう。数々の御業をなして下さる、主の慈しみに委ねて前を見つめて歩んでまいりましょう。

「教会総会とは?」

2021年3月14日

3月28日に定期教会総会が予定されています。コロナ禍の中、各教会は教会総会について様々な対応をしています。書面による決議、ZOOMを使ってのリモート総会、委任状の活用などの工夫がなされています。それらは尊い試みだと思います。しかし教会総会とは、教会員が主の前に共に召し集められ、主のご臨在の許に、主の御心を共に祈り求めつつ、行われるべきものだと信じています。主のご臨在の許に開かれる「御前会議」なのです。そこには聖なる緊張感がなければなりません。ですから、教会総会は祈りをもって始められ祈りでもって閉じられます。聖書の御言葉が読まれます。讃美歌が歌われます。説教はありませんが、礼拝と同じ思いで、私たちたちは主の前にぬかずいて話し合うのです。自分の意見ではなく、自分に示された主の御心を語り合うのです。ですから単に事務的に済ませれば良いというものではありません。主の御心がなされるかどうかが決定的なことなのです。それ故、教会員が主の御前に共に座して話し合うことが必要なのです。教団の総会規則が「議場にいない議員は評決に加わることができない(30条)」と定めているのもこの信仰に基づくのだと思います。

「キリストと共にある孤独」

2021年3月7日

コロナ禍で私たちは孤独感を重く感じています。「コロナうつ」や自死の増加にそれが顕著に表れています。ヘンリ・ナウエンはこのようことを言っています。「人は誰もが独りぼっちです。私と全く同じように感じ、考え、行動する人はどこにもいません。私たち一人一人がユニークである一方で、私たちは皆独りぼっちです。問題は、私たちが独りぼっちであることを、単なる『孤独』(ロンリネス)とするか、『静まり』(ソリチュード)とするかです。孤独は苦しいものですが、静まりは平安に満ちています。孤独故に私たちは他の人にしがみついてしまいますが、静まりは他の人をそれぞれかけがえのないものとして尊重し、共同体を生み出します。」ナウエンは、私たち人間はソリチュードへの成長が必要だと言っています。彼はそれを「キリストと共にある孤独」と呼び、「冒険」だとも言っています。キリストと共にある孤独とは、自分の弱さを一番感じる時に、そこにキリストがおられ、誰かの助けが必要だと思う時に、そこに神様の御手を感じることなのだと思います。試練のこの時こそ、静まって祈り、より真剣に御言葉に聴き、キリストと共にある孤独に生かされたいと思います。