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奪い取ることのできないもの

「奪い取ることのできないもの」

2021年5月30日

オーストリアの精神科医ヴィクトル・フランクルは、ナチの強制収容所に入れられたユダヤ人でした。彼が強制収容所に入れられたとき、看守たちは彼が身につけていたものをすべて剥ぎ取りました。けれども、彼から奪い取ることができなかったものが一つだけありました。彼はその著書「夜と霧」の中で、こう書いています。「人間の自由の中で最後に残されるものは、置かれた状況の中で、どう振る舞うかを選択する能力である」と。看守はフランクルから、どう振る舞うかを選択する自由だけは奪うことができなかったのです。私たちは置かれた状況そのものをコントロールすることはできません。しかしその状況にどう対処するかをコントロールすることはできるのです。人生において本当の意味で問題となるのは、起こってしまった問題そのものよりも、むしろその問題を通して私たちの内側に何が起こったかということなのです。もし、私たちが起こってしまったことに振り回されて生きるなら、いつも揺れ動いて安定性のない生き方になってしまいます。しかし与えられた御言葉に信頼し、神様の御心に適った生き方を選択するなら、より豊かな実を結ぶ人生となるのではないでしょうか。

「幸せの扉」

2021年5月23日

再び片柳弘史神父の言葉を紹介します。「『どうしたら自分の命を守れるか』だけを考えていると、かえって生きる力を失います。『どうしたら愛する人の命を守れるか、苦しむ人をこれ以上増やさないために何ができるか』と考えれば、日々の生活に生きがいを見つけられるでしょう。」他者の幸せが自分の幸せになる。他者を生かすことが、自分が生きることになる。これは聖書が私たちに示している世界です。テサロニケの信徒への手紙一3:7~9で、パウロはテサロニケの教会の信徒たちが、主によって生かされているなら、自分も生きていると言える。教会員の喜びを知ることで、自分も喜びにあふれている、と言っています。片柳神父はこのようなことも書いています。「幸せになりたいなら、『どうしたら幸せになれるか』ではなく、『どうしたら誰かを幸せにできるか』と考えましょう。幸せの扉は、自分のために開けようとしても開きません。幸せの扉は、誰かのために開けようとしたとき開くものなのです。」人間は自分の幸せにはなかなか満足しません。むしろ他者の幸せを喜ぶ方が容易いかもしれません。他者のために幸せの扉を開けることで自らの幸せを味わいたいものです。

「感謝しつつ老いる幸い」

2021年5月16日

先日、後期高齢者が自動車免許を更新する際に必要とされている認知症の検査を受けてきました。結果は辛うじてA評価を頂きましたが冷や汗ものでした。そんなことで、認知症を自分のこととして、より身近に感じるようになりました。デンマークの思想家でキリスト者であったセーレン・キルケゴールがこんな祈りを書いています。「主よ、この世が愚かな言葉を語り、心が苦しく、感覚が鈍り、理性が曖昧さの中に迷い、記憶が忘却の中に定かでなくなっても、なお、あなたに感謝をささげることができますように。そして、また、愛する力がなくなり、賢さを失い、誇りをなくし、暗い思いにある時でも、なお、感謝することを得させてください。」この祈りは、全ての高齢者クリスチャンの祈りではないでしょうか。最近お母様を天に送られたご婦人が、こんなことを書いておられました。「日常会話はできなくても、祈ると感謝の言葉しか出てこない母を見ると、神様と共に生きてきた信仰が、晩年にはそのまま表れてくるのだと知りました。」多くの方が「認知症になっても、なお、感謝できますように」と祈っておられるのではないかと思います。私もその仲間入りをさせていただいています。

「手を差し伸べるタイミング」

2021年5月9日

旧約聖書の雅歌は、一読する限りでは、恋しい女性を慕う若者の恋愛歌としか読めませんが、教会ではキリストと花嫁なる教会との関係、或いは神様とクリスチャンとの関係を歌っていると捉えています。この雅歌に心に残る言葉があります。「誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。」この御言葉と重なるような短いエッセーを片柳弘史神父が記しています。「どんなに手を差し伸べても、相手に立ち上がるつもりがないなら、立ち上がらせることはできません。手を差し伸べるなら、相手が立ち上がる気になった時です。大切なのは、その時を逃さないために、近くから見守り続けることです。」近くから見守り続けることは簡単ではありません。なぜなら近くにいると、どうしても手を差し伸べたくなってしまうからです。近くにいても静かに見守り続け、相手が立ち上がる気になった時に、そっと手を差し伸べて支える。これは相手の心にどこまでも寄り添う愛がなければできません。「愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさない」。近くで見守るためにはこの思いが大切なのです。伝道においても、教育においても、子育てにおいても、同じことが言えると思います。

「お互いはジグソーパズルの一駒」

2021年5月2日

先週は「真の一致とは補完し合うことだ」という藤木正三牧師の言葉を紹介しましたが、藤木師はこのようなことも言っています。「私たちが人生の事実の中で、一番再確認せねばならないのは、いかに多くの人々に許して貰い、堪えて貰って生きているかという優しい事実です。確かに人生は苦しく厳しいのですが、そこにはより深い事実として受容してくれる優しさがあります。」この言葉は、ナイジェリアとバングラディッシュでの医療奉仕に生涯を献げられた宮崎亮・安子医師ご夫妻の言葉と重なります。宮崎亮・安子ご夫妻はこう言われました。「私たち一人一人はジグソーパズルの一齣なのです。どれ一つ欠けても神様が描こうとしている絵は完成しないのです。ジグソーパズルの齣は、皆、出っ張ったりへこんだりして変な形をしています。でも一つの駒の出っ張ったところは、他の駒のへこんだところが受け入れています。だから、私たちも、他人の出っ張ったところを、自分のへこんだ部分をもって受け入れていくのです。そのようにして初めて、神様が描こうとしている絵は完成するのです。」私たちは神様の絵の邪魔をするのではなく、完成するのを手伝わせて頂きたいと思います。

「補完しつつ管しつつ共に生きる」

2021年5月1日

藤木正三という牧師がこんなことを言っています。「話し合ってゆくうちに、相違している立場が一致点を見出すかに思える場合があります。しかし、厳密に問うてゆくと、やはり相違点は残っています。もし、一致が同一を意味するなら、完全な一致というものは、恐らく存在しないでしょう。そのような存在し得ない一致を求めるから、時には、自説の押し付けをし、時には、虚構の一致に妥協するのです。一致とは、相違しているものが同一になることではなくて、実は、それらが補完し合うことなのです。補完だけが一致なのです。」藤木牧師はまた、こうも言っています。「“共に生きる”という言い方にも一種の気負いがあり、優者の臭いがします。むしろ、自分を劣者として、“相手から学ぶ”生き方を心掛けたいと思います。“共に生きる”は、“相手から学ぶ”の同義語と心得て使わないと危険な言葉です。」この言葉は、とても深いことを言っていると思います。“相手から学ぶ”という謙虚な姿勢が、お互いに補完し合うことへと繋がり、“共に生きる”という生き方を実現させるのだと思います。その時、相違している者同士にも、一致への糸口が示されるのではないでしょうか。