「赦されて仕えた9年間」
2022年3月27日
公衆衛生医学の分野に「疫学」という学問があります。その中でも特に「母子保健」、つまりお母さんと赤ちゃんに関する疫学研究をされている津田塾大学の三砂(みさご)ちづる教授が、「自分と他人の許し方、あるいは愛し方」という著書の中でこのようなことを書いておられます。「親はよくまちがう。よかれと思ってしたことが子どもを傷つけた、痛めつけていたと悔やむことが本当によくある。だから欠点だらけの『私』を許してほしいと祈るような思いでいる。」敬愛するK牧師は、これを読んで「牧師になるとは赦されることを学ぶことなのだ」と思わされたそうです。K牧師の思いに心から「アーメン」です。私もいつもそういう思いに覆われています。毎年5月の決算総会のために前年度の牧師の活動報告を書きますが、その都度「為すべきことが多かったのに、為し得たことが少なかった」という思いに迫られます。そういう日々を繰り返して9年が経とうとしています。今、主の前に、そして教会員の皆さまの前に、欠点だらけの私を赦して頂きたいと、心から祈り願います。主の赦しによって、そして教会員の赦しによって、これまで仕えさせて頂けたことを心から感謝致します。
「三浦綾子さんが遺したもの」
2022年3月20日
今年は三浦綾子さんの生誕百年の年です。三浦綾子さんは1922年4月25日に、北海道旭川市に生まれました。三浦さんが作家デビューしたきっかけは、朝日新聞が募集した1千万円懸賞小説に当選したことですが、この懸賞小説に応募する時、三浦さんは「どうか神様の愛を伝えられる作品を書かせてください」と祈ったそうです。そして更に「御心にかなわないなら入選させないでください」とも祈ったそうです。雑貨店を営みながら閉店後片づけをし、夜10時を過ぎてから毎晩コツコツと一年書き続けた作品を「入選させないでください」とまで祈ったのです。ですから「入選したからには、神様が責任を取って下さる。人にはできないことも神にはできる。これが今日に至るまでの私の信仰である」と書き残しています。文学史に残るよりも「誰かを救うことのできる作品を」と願い、「漠然と大衆を相手にするというのではなく、誰か一人でもよい、その胸に響く作品を」と願って書き続けた三浦さんでした。その作品は今も人々を慰め励まし、生きる勇気と希望を与え続けています。三浦さんが遺した最も重要なものは、その作品を通して神様を求め、信仰を求めた多くの人々ではないでしょうか。
「神の側にいるか」
2022年3月13日
私たち一人一人は、神様が心を込めて作って下さったかけがえのない作品であるから、その作品が褒められたり、尊ばれたりすることを神様は一番喜ばれる。逆に、その作品が傷つけられたり、損なわれたりすることを神様は一番悲しまれる、と先週の説教で語らせて頂きました。戦争は、神様の作品である人間がお互いに傷つけ合い、否定し合う行為です。神様が一番悲しまれる出来事です。でも、人間は直ぐに戦争を始めて、神様の御心を悲しませてしまいます。アメリカの南北戦争の時、戦局が北軍に有利に動き出したのを見て、ある人がリンカーン大統領に言いました。「我々はもう恐れる必要はありません。神様が我々の側にいらっしゃいます。」それを聞いてリンカーンが答えました。「そうですね。でも、今、我々にとって最も大切なことは、果たして我々が神様の側にいるかどうかということです。」リンカーンは一日も早く戦争が終わることを切に願っていたのです。ロシアもウクライナも同じ東方正教会に属する国です。ウクライナに侵攻しているロシアの指導者たちが「今、我々は神様の側にいるだろうか」と、真剣に自らに問い掛けてくれることを、ひたすらに祈り願っています。
「たとえ離れていても」
2022年3月6日
コロナ禍の中で「ソーシャルディスタンス」という言葉が広く聞かれるようになりました。それまでは苦難の時は身を寄せ合い、手を取り合って励ましてきました。しかし今回の苦難ではそれができません。逆に、離れていなさいと勧められています。今、私たちは、体は離れていても心と心を寄せ合って励まし合うことを求められています。しかし離れている時が長くなると、いつしか心までも離れてしまうのではないかと不安になります。ここで使徒パウロのことを考えて見ましょう。パウロは福音宣教のために一つの地に長く留まることができず、生まれたばかりの愛する教会を後の人に託して次の地へと旅立ちました。どんなにか心残りであったでしょう。ですから愛する教会員に「体では離れていても、霊ではあなた方と共にいる」(コロサイ2:5)、「顔を見ないというだけで心が離れていたわけではないのです…なおさら、あなた方の顔を見たいと切に望みました」(第一テサロニケ2:17)と語っています。パウロは祈りを通して霊的には共にいるという確信を持ちつつも、それでも尚、顔を見たいと切に願っています。パウロの気持ちを共有しつつ、パウロの祈りに自らの祈りを重ねます。